溝上悠真による「シリーズ」もの|作品解説
前期の八坂は、演奏者=八坂独自の身体性を増幅することによる曲の換骨奪胎、いわば「他作自演」を自らの作曲行為と見なした。しかし後期へ移行するにつれ、八坂はその演奏もまた他者に委任するようになる(「他作他演」)。また、当初はそこに自らの名を冠していたが、次第にその署名も行わなくなっていく。
代わりに八坂は、その「他作他演」またその一部としての「自作他演」からなるコンサート・CD・楽譜アンソロジーといった企画を無記名で行うようになる。(いわゆる「シリーズ」もの。関係者によるおそらく意図的な「暴露」が何度か行われたほか、「関係者へのインタビューに基づき」八坂の作品と決定した上で研究が行われたりし、作品の存在が認知されていった。)その際八坂は、事前に同棲や登山などの行為を通じ作曲者や演奏者と密接な関係を築くことで、彼らに身体および生の次元での署名を刻みこんでいた(という事実が八坂の死後、関係者へのインタビューから明かされた)。八坂は、そのような身体的痕跡がシリーズに通底することで、彼の存在が記録、再生、再構成されることを求めていた。
現在、大半がそれと明かされず行われたこの作品群を発掘・推定する研究が盛んであるが、八坂の狙いは、そこで追究される自身の正確な同定ではなく、聴き間違えによる「発見」の連続に伴う自身の身体および生の更新や分担にあると見るべきだろう。八坂の関心は一貫して、ある存在と紐づいた曲がほかの存在によって演奏されることで、ふたつあるいはそれ以上の存在がともに絡まり合い変形する事態にあった。