八坂健治

1942-2020  |  JAPAN

ログジャム・ニッチ・ノットによる八坂健治(1)|事典記事

ログジャム・ニッチ・ノットは 1962 年に草月会館で行われたジョン・ケージの来日公演のために日本を訪れた際に、当時東京大学在学中であった八坂健治と出会う。
以後八坂と親交を深め、2004 年の死の直前まで八坂研究を行なっていた。
冨田萌衣によるログジャム・ニッチ・ノット)
八坂健治(1942-1990)は、東京生まれの作曲家・演奏家。9 歳のときに事故から右脚に障害を負い、1962 年に草月アートセンターにてジョン・ケージとデーヴィッド・チュードアらの演奏会に触れた彼の仕事は、自らを含む「障害」を抱えた楽器や演奏者らによる、既存の楽曲のサド/マゾヒズム的プレイ=演奏を「作曲」として行うことから始まる。楽器の一部を破壊するプリパレーションや、ピアノの下敷きになる演奏者の追加などを、しばしばプログラムに記載することなくゲリラ的に行ったことは、後に前景化する自らの抹消への興味の表れでもあろう。並行して、日本や世界の情勢に対する政治的プロテストとしてのパフォーマンスも多く行った。例えば、1964 年の東京オリンピックに際する聖火リレーの実施にかつての日本のファシズムの復活を予感した八坂は、公道で自らの指に火をつけて走るというパフォーマンスを計画した(これは実施直前に周囲の人々が制止し、実現しなかった)。また、ベトナム戦争における日本のアメリカ軍支援を批判する八坂は、アメリカ軍によるコンテナの使用および特需による日本の経済発展に注目し、それを同時期の日本における、海外渡航の解禁(1964 年)に伴う安価なスーツケースの大量生産と重ね合わせ、自らがスーツケースに入り輸送されるというパフォーマンスを実行した。これは、日本の BDSM コミュニティで定番となる閉所拘束プレイの起源とされる。
ところが、これらの多分に視覚的な作品は、ラジオという聴覚的メディアと出会ったとき、思わぬ事態を引き起こすこととなる。録音された彼の作品が放送されると、録音の仕方や度重なる再演による演奏者らの熟達などから、音声としては一般的な演奏とほとんど聞き分けが付かず、結果として、単なる演奏音源として複数のラジオ番組で流用されたり、「障害者による健常者並みの演奏」という美談の材料として用いられたりすることとなった。これらを受けて、「音楽における演奏の究極的などうでもよさ」を学んだという彼は、大きく作風を転回させることとなる。
後期の八坂は、派手な「演奏」によって自らを刻印するのではなく、亡霊のように作品に取り憑き、誤認と区別がつけられない形で自らを受容者に感じさせることを目指した。彼はコンサートやアルバム、楽譜アンソロジーの制作を匿名で企画し、その全制作者と心身ともに親密な関係を持つことで、自らの存在の痕跡を微かに残すことを、その晩年まで続けた。彼の遺言には「以後、私について語るいかなるものも、私を同定できない程度に改変すること」という文言が含まれている。彼の仕事の全貌は未だ不明瞭であり、研究が進められている。(訳:溝上悠真
溝上悠真によるログジャム・ニッチ・ノット
訳者解説

本稿は、ログジャム・ニッチ・ノットによる八坂健治の解説記事(The New Dictionary of Japanese Music 所収)の日本語訳である。いくつもの先駆性を含んだ八坂の仕事——例えばコンテナに注目した「箱詰め」の実践は、不法移民の密航手段としてコンテナが用いられ、多数の死亡事故が発生している現代において示唆的だろう——はしかし、後年の「隠居」によって省みられることが少ない。彼の仕事を的確に概観する当記事は広く参照されるべきだろう。
ただし、当記事にはいくつかの瑕疵を指摘することができる。例えば、前期の八坂の仕事における協働性はたんにサド/マゾヒズム的なものだけではなく、身体障害者にとって大きな問題である「介護」に関するものも多くみられるが、その点には触れられていない。また、八坂における「箱」は、流通の単位、道具化、ブラックボックス、など複数の問題意識を孕んだものとして後期の仕事の通奏低音をなしているが、その点も書き落とされている。
加えて、もっとも奇妙なこととして、八坂の没年が 1990 年とされている点が挙げられる。八坂の死去は 2020 年であり、校正がこのような単純かつ重大なミスを見落とすとは思えない。他のログジャムの著作に見られる平易というよりほとんど軽薄な文体とは似ても似つかない重たさ、読みにくさと併せて、これ自体が八坂との協働作業からなるものであり、後期八坂の作品であると考えられるだろう。

ラベルを貼りまちがえた荷物が運び出される
(1973/6/27)

溝上悠真による八坂健治(1)|
前期作品の《介助付き演奏》とその帰結

右足が不自由でダンパーペダルが踏めなかった八坂自身の身体に由来する一連の作品。既存の古典的作品をできるだけ楽譜に忠実に(指番号の遵守など)再現しつつ、演奏者として想定されていない身体をもつ主演奏者とその介助者で、いわば二人羽織的に演奏することによって、作品およびその演奏-聴取経験を異化する。
八坂の身体障害に由来する作品群だが、展開は多様な文脈のもと行われた。例えば、女性が手の小ささから演奏可能な曲を制限されやすい事態へのフェミニスト的批判として、女性ピアニストによるリサイタルのなかで、本シリーズの一作が、プログラムには原曲の演奏とのみ記載しつつゲリラ的に演奏されたことがある。
しかし、あくまで楽譜の忠実な再現を旨とする本シリーズは、八坂の転回をもたらす皮肉な事態を引き起こすこととなった。現代音楽を特集するラジオ番組で本シリーズの一作が取り上げられ、八坂自身らによる演奏が録音・放送された際、繰り返しの上演による熟達から、その録音はほとんど「ふつうの」演奏と聞き分けがつかないものになっていた。(呼吸音や衣擦れなど演奏者らのノイズを強調したバージョンも八坂の発案から録音されたようだが、放送には採用されず、データも残っていない。)結果として、その録音は一方でたんなる原曲の演奏音源として複数のラジオ番組で使用されつつ、他方では「障害者による完璧な演奏」、つまり美談的な風味付けとしてのみ「障害」に目が向けられる音源また「健常者並み障害者」という理想を具現化した音源として、かえって健常者中心主義を強化する目的で利用されることとなった。
これから八坂が学んだのは、単一の楽譜がもたらす爆発的に多数の演奏がしかし単一の結果へと収束してゆく事態や、そこで「流通」の果たす致命的な役割、ラベルとして動員されたり剥がされたりする名や属性、疎外され続ける身体、といった事柄である。

溝上悠真による八坂健治(2)|
「他作自演」から「他作他演」へ

前期の八坂は、演奏者=八坂独自の身体性を増幅することによる曲の換骨奪胎、いわば「他作自演」を自らの作曲行為と見なした。しかし後期へ移行するにつれ、八坂はその演奏もまた他者に委任するようになる(「他作他演」)。また、当初はそこに自らの名を冠していたが、次第にその署名も行わなくなっていく。
代わりに八坂は、その「他作他演」またその一部としての「自作他演」からなるコンサート・CD・楽譜アンソロジーといった企画を無記名で行うようになる。(いわゆる「シリーズ」もの。関係者によるおそらく意図的な「暴露」が何度か行われたほか、「関係者へのインタビューに基づき」八坂の作品と決定した上で研究が行われたりし、作品の存在が認知されていった。)その際八坂は、事前に同棲や登山などの行為を通じ作曲者や演奏者と密接な関係を築くことで、彼らに身体および生の次元での署名を刻みこんでいた(という事実が八坂の死後、関係者へのインタビューから明かされた)。八坂は、そのような身体的痕跡がシリーズに通底することで、彼の存在が記録、再生、再構成されることを求めていた。
現在、大半がそれと明かされず行われたこの作品群を発掘・推定する研究が盛んであるが、八坂の狙いは、そこで追究される自身の正確な同定ではなく、聴き間違えによる「発見」の連続に伴う自身の身体および生の更新や分担にあると見るべきだろう。八坂の関心は一貫して、ある存在と紐づいた曲がほかの存在によって演奏されることで、ふたつあるいはそれ以上の存在がともに絡まり合い変形する事態にあった。

溝上悠真による八坂健治(3)|イザベラ・フロストへの影響

フロスト《Ephemeral Reverie》(2018)は、八坂の作品である楽譜作成指示を換骨奪胎する「演奏」から生じた楽譜=作品であった。八坂は実際にその土地を歩いた存在の痕跡として和声・テキスト・撮影された風景を楽譜化することを企図していたが、フロストは自らが行ったことのない土地を、オンライン上で完結する調査(Google ストリートビューを用いた撮影など)から楽譜化した。八坂の関心がヴァーチャルな身体・生の立ち上げにあるとすれば、フロストの関心はヴァーチャルな土地=存在を取り巻く空間の立ち上げにあり、その後制作されたもっとも有名な作品である《Curling Music》(2022)における「カーリングの状況の再現」というテーマにも、同型の関心が見て取れるだろう。
イザベラ・フロストによる八坂健治

《首塚のための予行5》(2010)
聞かされたとおりに道を歩く。
①その道筋を画面にしたもの 
②聞かされたことば 
③それらを楽器が聞かせられる発音になおしたもの
を並べ、聞かされた私が何者かを任せる。
(フロストによる実践)

参考文献:Unveiling the Sonic Journey: A Conversation with Isabella Frost

ログジャム・ニッチ・ノットによる八坂健治(2)|言霊学

晩年の八坂には言霊学への関心があった。言霊学とは、声に発された言葉が現実の事象になんらかの影響を与える、そのはたらきについての学であって、とりわけ江戸中期には、国学の神秘主義化とともに、平田篤胤や山口志道、中村孝道といった面々によって、音声の探求を通じた宇宙生成の学として確立された。ただし、影響といっても、音声と事象は通常の時系列的な前後関係には帰属せず、発声と事象の確定は無時間的な現象なのであって、中村から教えを受けた出口王仁三郎は、この言霊学を基礎にして数々の予言を残し、そして的中させた。言霊学においては日本語の五十音表が重視されたが、八坂もまた、この方法を独自の仕方で吸収し、自らの音楽実践において遂行するものであった。 
たとえば、五十音表において「やさかけんじ」をこの順で線で結んでいき、囲われた言葉を並べると「すへてねせ(全て寝せ)」になることから、八坂は自らの芸術の最終目標を、万物の就寝に設定していた。そのために八坂の探求は、人間以外の生物や物体を含めた万物による音楽の聴取、時間的・地理的制約に拘束されない時空間スケールにおける聴取の可能性(そしてそこから帰結する音楽の概念化)、意識状態と無意識状態の混淆した、聞くことがすなわち寝ることであるような聴取経験への誘導といった問題構制へと発展していった。 
風景と自身の身体のかかわりを模索しているかのように見えた八坂の諸実践でも、実のところそこでほんとうに問題とされていたのは風景による聴取の方であった。とりわけ八坂の言霊学の特異性は、発話者を人間に限定していた従来の言霊学とは異なり、世界を万物が発話する言霊の交通の場として捉え返した点にあった。
アルマナックによる八坂健治

八坂健治の手記から、ノットについての言及がなされた箇所が解読された。晩年の八坂は言霊学への関心があったことが指摘されており、日本語の五十音表を用いた独自の方法を自らの実験音楽において実践したと言われる。この手記は発話者を人間に限定しないことに特徴をもつ八坂現霊学の試みとして「黒曜石の発話の聴取」が実行され、そのなかでノット(手記中ではログジャムと表記)の音楽史観についての八坂の言及がなされた、非常に貴重な資料である。
八坂健治によるログジャム・ニッチ・ノット

前回の風景音楽における黒曜石の発話の聴取を通じて、いずれログジャムという名の男が現れ、音楽の歴史を書き換えることが明らかとなった。これは由々しき問題である。 
ログジャムには音楽の才能がなかった。そしてログジャムには努力するための気概も、時間もなかった。それでも音楽史家たらんとするために、ログジャムは音楽を音楽史と同一化しようとするのだ。そのとき、ほんとうの音楽の歴史はログジャムによって塗り替えられてしまう。しかしこれは概念音楽の本質からはまったくの逸脱とみなされるべきである。概念音楽は所有されえず、したがって創作もされえない。ただ発見されるのみである。 
だから私のほうで先手を打っておこう。ログジャムによって発見される音楽史は偽音楽史である。ひるがえって、ログジャムという男もまた、存在などしないのである。このことを詠う碑を、いそぎあの黒曜石の近くに建立せねばなるまい。

寝床に欲望させられていて、気づかないうちに話してしまったらしい そのするする育つ
木がわたしの名を呼び そう知らされ 足の鳴く足がみえる 根が来て減る
(2010/4/16)

黒曜石のinterpellation
(2006/9/2)

聞こえる から鳴いていて それは名を呼んでいたのだ 呼ばれたとおりになる
名が聞こえ それを聞いた身体がその私になる
名を聞かれ それを鳴いた身体がこの私になる
(1978/3/9)

土地に半分埋まり
ある仕方で動いていると そのような名が差し出される
(2013/11/12)

「檸檬蜂」による八坂健治|心霊スポット

ある山深い場所に、忘れ去られた神社があります。この神社は長い年月を経て、不思議な力に包まれていると言われています。周囲には厳かな森が広がり、人の気配はありません。その神社には「影の神」と呼ばれる存在が宿っていると噂されています。夜になると、森の中に立ち上る薄暗い霧が神社を包み込み、神社に足を踏み入れる者は、その身に不可解な現象が起こると言われています。証言によれば、神社に足を踏み入れた者は、幽霊のような影が尾を引いていると感じることがあります。周囲の植物や動物も不気味な変化を遂げ、鳥のさえずりや風の音が異様に聞こえるとも伝えられています。また、神社の奥には一本の大きな松の木が立っており、その松の木に触れた者は、幸運に恵まれると言われています。しかし、その恩恵を受けるためには、松の木に触れる者自身が、心の中に秘めた強い願いや優れた精神力を持っていることが必要だとも言われています。
この神社を訪れる人々は、多くが恐怖心や興味本位から訪れますが、中には霊的な経験を求める人々もいます。彼らは影の神との交信を試みるため、神社に深夜に忍び込み、特別な儀式を行います。しかし、その儀式には危険が伴い、命を落とす者もいると言われています。この心霊スポットの噂話は、人々の興味と恐怖心を刺激し、多くの冒険者や霊的な探求者を引き寄せています。しかし、一度この神社を訪れた者たちは、不可思議な現象と霊的なエネルギーに触れたことで、生涯忘れることのできない体験をすることとなるでしょう。
この心霊スポットには、実験音楽家の八坂健治という人物にまつわる悲劇的な言い伝えも知られています。八坂健治は、特異な音響体験を求めてこの神社を訪れたのです。八坂は数週間にわたって、この神社で独自の音楽実験を行いました。彼は神社の周囲に特殊な録音機材を設置し、神社から発せられる不思議な音や、森の中に響く奇妙な共鳴現象を捉えようと試みました。
ある晩、八坂は深夜の神社での録音セッション中に突然姿を消しました。彼の友人や仲間たちは彼を探しましたが、どこにも見つかりませんでした。八坂の遺品と録音機材は神社で発見されましたが、彼自身の姿は一切ありませんでした。
八坂の失踪以降、この神社では彼の亡霊が出ると噂されるようになりました。訪れる者たちは、八坂の幻影が神社を彷徨っていると証言し、不気味な音や奇妙な共鳴が聞こえるとも伝えられています。
この悲劇的な出来事以降、心霊スポットとしてのこの神社の評判はさらに高まったと言います。
(投稿者:檸檬蜂)
冨田萌衣による植村朔也

作曲家。2018年より活動。作曲家としては、自身をカニだと信じている。心霊スポットに足繁く通う。多くの心霊スポットは山間部に所在するため、その土地の淡水を得ることでカニになり、それによって作曲家になるという「作曲以前の演奏」を儀式的に行う。
ある心霊スポットで、八坂の声の幽霊と出会う。出会った当初、八坂はまだ生きていたが、その幽霊は彼があと1年ほどで死ぬらしいという。

(落とし所として、八坂が神社でしたかったことはなんなのか?を考える。神社の周辺のフィールドレコーディングとは囮で、実はノットが作曲した作品の上演が目的だったトカ。そうすると八坂がただの「スピったおじさん」ではなくなる。)