Albatorosa Solovetsky

1831-1896 | RUSSIA

日吉希によるアルバトロサ・サラヴィエスキー
(1)|プロフィール

1831年、アムール川近くの寒村に生まれる。幼少期から夏に繁殖のため川に集まる渡り鳥を眺めることを好んだという。17歳の時家を出て流浪の遊牧民の集団に身一つで加わり、数年を過ごすうちに遊牧民に伝わる自然崇拝に傾倒、特に渡り鳥を神の使いとして神聖視するようになる。22歳の時キエフに現れ、渡り鳥を崇拝する集団を結成。数年で南ロシア一帯を中心に数千人の信者を獲得する。教団は彼の死後もしばらくの間勢力を保ったもののスターリン時代に始まる苛烈な弾圧により最終的に壊滅状態に追い込まれ、資料も散逸したために長期間《キエフの鳥使い》の異名とともに「渡り鳥の群れを自在に操った」、「鳥と会話した」、果ては「大量の渡り鳥の集団に椅子を吊り下げさせてキエフに(文字通り)飛来した」といった眉唾な噂とわずかな信者の証言程度しか残されておらず、その実在すら疑われており、動物磁気などと一緒くたにオカルト扱いされていた。しかし、1997年にある信者の子孫の家から本人の肉声や渡り鳥の鳴き声を収めたレコードが発見され、俄に(歴史畑ではなく)音楽界で注目されることとなる。人間の意思によらない自然物を音源として「演奏」されるそれははたして「音楽」たりうるのか、一時論争を巻き起こしたサラヴィエスキー・レコードであったがブームは翌年には一旦収束する。本格的に研究が進むのはさらに25年の時を経て2022年、ロシア・ユダヤ自治州から日本へ亡命した一人のウクライナ系信者が大量の資料をもたらしてからである。これらの資料から教団はシベリアへ強制移住させられたウクライナ人コミュニティの中で弾圧を逃れて存続していたこと、その自称が「ニエカレクチワ」であり教祖たるサラヴィエスキーが「ウチヤリムッシュ」と呼ばれていたことなどが今までに判明している。

日吉希によるアルバトロサ・サラヴィエスキー
(2)|断章・紀行:サラヴィエスキーの残響を訪ねて

《キエフの鳥使い》ことアルバトロサ・サラヴィエスキーの名がふたたび世に知られるようになったのは3年前、彼が生前に残したレコードが旧ソ連時代の弾圧を逃れた信者の子孫の家から発見されてからのことだ。鳥の歌声を紡いでひとつのメロディーとしたそれは果たして「音楽」たりうるのかー音楽界で一時賛否両論、あるいは百家争鳴とも表現すべき議論となったその残響を求めて筆者はキエフに向かった。

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心なしか、30年前よりキエフの風は軽く感じた。全盛期には現在のウクライナを中心に「とまり木」と称する教会を20ヶ所以上構えたという教団だが、すでにスターリン時代の弾圧でそれらは失われている。唯一、わずかに隠れて弾圧を生き延びた信者たちが再建した「とまり木」が一ヶ所だけ存在するということでまずは足を向けてみることにする。

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あらかじめ(方法は伏せざるを得ないが)アポを取っていた者であることを伝えると、2、3の問答を交わし中に招き入れられる。その中は教会の類と聞いて思い浮かべるものとはかけ離れていた。まず、非常に喧しい——人ではなく、鳥の鳴き声で。そして、信仰対象としての人や鳥、あるいはそれらを模したものは少なく、主役ではない。本尊ともいえるような位置に鎮座していたのは今時見かけない、超がつく旧式のレコードプレイヤーだった。いや、その表現は正確ではない。それに載った一枚のレコードこそが「本尊」となっているのだ。

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彼らの信仰対象は人でなく、神でもない。その間を取り持ち、神の言葉を人に伝えると彼らが信じているのは渡り鳥である。そしてその最初にして最後の「解釈者」たるサラヴィエスキーの教えは一枚の古いレコードにその多くが収められているそうだ。「オリジナル」なのかは定かではないが、わざわざ古いレコード盤に収めて飾ってある以上はそれに近いものなのだろう。

ログジャム・ニッチ・ノットによるアルバトロサ・サラヴィエスキー
|手記の抜粋

『アムール川流域からモンゴル西部に渡る地域より 1950 年代に発見された数点の文献から、1860年代から1890年頃にかけ、「ニエカレクチワ」と呼ばれる渡り鳥を崇拝する団体が存在していたことが分かり、そのリーダーとして「ウチヤリムッシュ(鳥に憑かれた男)」と呼ばれる男の存在が明らかになった。以後彼は西洋の歴史家の研究対象となった。1970年代になるとニエカレクチワは鳥の鳴き声を用いてある種の音楽を奏でていたことが判明し、数名の音楽家にも研究への協力が要請された。私自身声がかかったうちの 1 人である。
文献によるとウチヤリムッシュは鳥の鳴き声のままに、枝で地面に特定の記号を書き並べ、それらの記号を解読することで天気や災害、はたまた家畜の死などを予見できたという。研究から、彼には絶対音感のようなものが備わっており、渡り鳥の奏でる鳴き声に応じて65種類にもわたる記号を割り振っていたことがわかった。1831年にアルバトロサ・サラヴィエスキーの名で生まれた彼は、両親共に音楽熱心であり、幼少よりピアノの練習を強いられた。その日々に耐えかねたサラヴィエスキーは、17歳にして家を抜け出し、遊牧民の集団に加わったのである。そこで彼は渡り鳥の鳴き声と現実の出来事に繋がりを見出したようで、1853年になるとニエカレクチワを結成し、以後占い団体として名を馳せていく。彼が地面になぞる記号たちは、渡り鳥の鳴き声の音の高さをそのままに写したものであるが、彼は幼少より使用を強制された音階には嫌悪を抱き、独自のより複雑な音記号を編み出していったのであろう。
私は執筆中の著書「一般音楽史入門」においてぜひ彼の人生に触れたいと思っている。彼もまた立派な音楽家であり、後世に伝わっていくべきであるからだ。』

冨田萌衣によるエルジャナ・ツィデンジャポフ|インタヴュー

2026年7月12日

※このインタビューは、ロシア語の翻訳者を交えて行われた。

T:エルジャナさん、本日はお時間をいただきありがとうございます。まずはログジャム・ニッチ・ノットとの出会いについて、お尋ねできますか。

E:ログジャムとの出会いは、彼がコムソモリスク・ナ・アムーレ(極東ロシア第3の都市)を訪れたときでした。ログジャムはそのとき、「ニレカレクチワ」という団体のリーダー、アルバトロサ・サラヴィエスキーの調査で、アムール川近郊の都市を巡っていました。私の祖父もその団体のメンバーだったために、知人を通してログジャムを紹介されたことが始まりです。

T:ご存知かと思いますが、ログジャムはアメリカでは音楽史家として大学に雇われていた研究者です。いっぽう、サラヴィエスキーは「鳥に憑かれた男」という異名でも知られる音楽家ですね。数年前、ウクライナから日本へ亡命してきた人物によって、サラヴィエスキーに関するレコードや文書、写真といった資料が見つかったことはご存知ですか?

E:そうだったのですね、知りませんでした。サラヴィエスキーについて私が知っているのは、祖父や母から聞いた話がほとんどで、ログジャムと知り合うまで世の中で彼がどのように評価されているか意識したこともなかったですし、そもそも私たちが住むシベリアをふくむロシアや、ウクライナ、ベラルーシといった近隣諸国以外の地域で知られていることに驚かされたほどです。

T:ログジャムはサラヴィエスキーについてどのように語っていましたか?

E:私たちといるとき、ログジャムはサラヴィエスキーを終始褒めていました。もちろん、それは私の祖父が「ニレカレクチワ」のメンバーであることも念頭においてではあったかもしれません。しかし、ログジャムの言い振りにはなにかエネルギーが含まれていた気がするのです。

T:というと、ログジャムがサラヴィエスキーに傾倒していたと?

E:はい。印象的なのは、ログジャムが調査はあくまで建前なのだと話していたことです。ログジャムは、サラヴィエスキーが鳥とコミュニケーションをとり、鳥たちの声おを録音した作品を音楽史のなかに組み込むために、研究機関の依頼を受けてシベリアに来ていました。つまり、音楽の研究者として、歴史家という立場があったわけです。ログジャムはこうした前置きをしたうえで、我が家に来て1週間経った頃でしょうか、実際は、自身が抱えている作曲の問題を解決するためにシベリアを訪れたのだ、と夕食をとりながら話し始めました。彼はもともと若い頃は作曲家を志していたが、音楽史があまりに西洋中心主義的で、パフォーマンスにおける強度がまるで考慮されていないことに憤りを持っていたために、まずは音楽史という楽譜を作らなくてはいけないと考え、いまの仕事に取り組んでいると言っていました。

Z:私たちが知る限り、ログジャムは徹底した秘密主義者で、大学内でも彼がどんな研究をやっているか、知る人はほとんどいませんでした。そんな彼が、なぜエルジェナさんたちに対して饒舌になっていたのか、なんとも不思議ですね。

E:まともな歴史を編曲しないかぎり、自身の作曲家としてのキャリアは始まらないし、そういった作業においてまわりの音楽家や音楽研究者とは距離を保つ必要があったという哲学があったようです。しかし、……(つづく)
冨田萌衣による冨田萌衣

この「偽実験音楽史」の黒幕。すなわち、授業内の上演のためにノットという架空の中心人物を立ち上げ、ノットがあたかも現在流通する音楽史(あるいはその信憑性を強化するための偽音楽史)を立ち上げたかのように振る舞っている。だが実際は、ノットは実在する(と主張する)。ノットは彼女の曽祖父の兄にあたる人物なのだ。
冨田は考古学の専門に進み、やがて調査に訪れたシベリアでノットの痕跡に気づく。ノットはたしかに、サラヴィエスキーの調査としてシベリアを訪れており、当時ノットを家に泊めたという人物の話をうかがうことができた。だが、(このフィクションにおける)実情として、冨田もまたアルマナックのメンバーだった。インタビューにはザカリー・サンダースも同席。
ノットを泊めた人物は、エルジェナ・ツィデンジャポフという女性の一家。ブリヤード人で、サラヴィエスキー娘がシベリア発の民族バンドだったこともあって、家族でノットと意気投合。彼の調査のあいだ、面倒を見ていた。2026年のインタビュー敢行当時、彼女は62歳。彼女の祖父はサラヴィエスキーの団体「ニエカレクチワ」のメンバーだった。