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イザベラ・フロストへのインタビューより、2026年9月10日、東京、聞き手・
西垣龍一)
西垣:ここで、今日のオーディエンスが最も興味をもっていらっしゃるであろう、《Curling Music》の話に参りたいと思います。ご存知だとは思いますが、簡単に説明しておくと、《Curling Music》はカーリングのストーン 8 つの動きを楽譜と見立て、弦楽八重奏の奏者一人ひとりにストーンが割り振られた作品です。スウェーデンの国内試合で予告なく、つまりハプニング的に演奏され、これが SNS などで広まり、大きな注目を浴びることになったわけですね。ここまでの話からお分かりのように、瞑想的な作風で書かれていたフロストさんがこのような実験的な作品を作られたというのは、なんだか不思議な感じがしてしまいます。
フロスト:実際、《Curling Music》は私の作風とは異なる実験的な作品であり、多くの人々に驚きや関心を与えました。この作品は、カーリングのストーンの動きを音楽的に表現するというアイデアから生まれました。普段は瞑想的な作風を追求している私ですが、時には新しいアプローチや異なるジャンルに挑戦することもあります。作曲家として、常に新しい表現方法やアイデアに開かれていることが重要だと考えています。音楽は創造的な表現の領域であり、時には予測不可能な展開や実験的なアプローチによって新たな発見や感動が生まれることもあります。《Curling Music》は私の作品の中でも特異な存在であり、人々に新たな視点や驚きを与えることができた作品として認識しています。瞑想的な作風と実験的な作品が同一の作曲家によって生み出されることは、確かに不思議に思われるかもしれません。しかし、私の創作活動は常に多様性と柔軟性を追求しており、異なる表現手法やジャンルに挑戦することによって、より豊かな音楽体験を提供できると信じています。
西垣:カーリングはお好きですか?プレイもされる?
フロスト:実は、私はカーリングにはあまり関心を持っていませんし、プレイしたこともありません。《Curling Music》の制作にあたっては、カーリングのストーンの動きや競技の要素を音楽的に表現することに興味を持ちましたが、それはあくまで音楽的なアイデアとしての側面でした。作曲家として、さまざまな要素やテーマを取り入れ、音楽として表現することがあります。カーリングを題材にした《Curling Music》もその一例です。しかし、実際のスポーツとしてのカーリングに対する私個人の興味や関心は限定的です。音楽は私の主な表現手段であり、それを通じて人々の心を打ち震わせることを目指しています。
西垣:それは意外です。実は私はカーリングが大好きで、国内大会がやっているときには一日中観ているくらいです。妹が名寄という小さい町で大学生をやっていたときに、実際にやってみたこともあります。しかし、スウェーデンの方にとっては興味がなくとも、そこからアイデアが生まれるくらいには身近なスポーツなのでしょうね。日本における野球と同じように。
フロスト:カーリングがあなたにとって特別なスポーツであり、大変お好きなことが伝わります。スポーツは人々を魅了し、共感や感動を生む力を持っています。また、異なる文化や国々においても、特定のスポーツが愛されることはよくあります。《Curling Music》がカーリングを題材にしていることは、音楽とスポーツの異なる領域が交わる興味深い例と言えるでしょう。私はスポーツに対する興味や関心はそれほど持っていませんが、それでもカーリングからインスピレーションを受け、音楽的な表現に取り入れることができました。異なる文化や背景を持つ人々が異なるスポーツに共感し、それを通じて繋がりを感じることは、素晴らしいことです。音楽も同様に、人々を結び付け、感情や思いを共有する手段として重要な役割を果たしています。カーリングや野球など、さまざまなスポーツが人々の心を動かし、絆を深めることに貢献しているのですね。
西垣:話を作品に戻しますが、《Curling Music》と普段の瞑想的な作品との間に何らかの関連を見出すことはできますか?それとも、断絶しているのでしょうか?
フロスト:《Curling Music》と私の普段の瞑想的な作品との関連性については、一見すると断絶しているように見えるかもしれません。《Curling Music》は実験的でユニークなアイデアに基づいており、カーリングというスポーツの要素を取り入れた作品です。一方、私の瞑想的な作品は、内省や静寂、自然の美しさなどをテーマにした作品が多く、穏やかな雰囲気や調性的な要素が支配的です。このような作品には瞑想や内省を促す要素が含まれており、聴衆に静寂や癒しをもたらすことを意図しています。しかし、これらの作品にも共通した要素が存在します。それは、音楽を通じて感情や思考を表現し、聴衆との共鳴を生み出すという点です。どちらの作品も、音楽を通じて人々の心に響き、深い感情を呼び起こすことを目指しています。また、私自身の音楽の哲学やアプローチにも一貫性があります。内なる探求や自然とのつながりをテーマにしており、人々に精神的な安らぎや洞察を提供することを追求しています。したがって、《Curling Music》は普段の瞑想的な作品とは異なるアプローチや要素を持っていますが、共通の目的や音楽の根底に流れる思いが存在していると言えるでしょう。それぞれの作品は異なる表現形式を通じて伝えられますが、音楽という媒体を通じて共通の共感や感動を生み出すことを目指しています。
西垣:フロストさんは実験的な作品、たとえばケージやフルクサスの作品を好まれたり、興味を持ったりされていたのでしょうか?
フロスト:はい、私は実験的な作品や先駆的な作曲家に興味を持っています。ジョン・ケージやカールハインツ・シュトックハウゼン、イアニス・クセナキスなど、フルクサスやアヴァンギャルドの作曲家たちの作品は、私の音楽的な視野を広げる上で重要な存在です。彼らの作品は従来の音楽の枠組みを超えた実験性や新たなアイデアを追求しており、音楽における伝統的な概念や規則に挑戦しています。そのような作曲家たちの作品は、私にとって革新的なアイデアや創造性の源泉となっています。ただし、私が実験的な作品に触れるときでも、自分自身の音楽のアイデンティティや表現手法を保ちながら、新たな可能性を探求することを心がけています。実験や先駆的なアプローチは刺激的で興味深いものですが、私の音楽の根底には内省や瞑想的な要素があり、それを大切にしています。
西垣:ペルトのティンティナブリ様式の作品を愛しながら、ケージ、シュトックハウゼン、クセナキスにも興味を持たれるというのは面白いことですね。あなたは、実験的な作品のなかにも、自己のアイデンティティである瞑想的な要素があるとおっしゃいました。《Curling Music》には瞑想的な要素を見出すことは難しいと思うのですが。
フロスト:確かに、《Curling Music》は瞑想的な要素を見出すことは難しいかもしれません。この作品は実験的なアイデアとカーリングの動きを結びつけたものであり、従来の瞑想的な作風とは一線を画しています。しかし、私自身の音楽制作においても、異なるスタイルやアプローチを取り入れることで新たな表現の可能性を模索することがあります。実験的な作品や先駆的な作曲家の作品は、私にとって創造的な刺激となり、自己のアイデンティティを探求する上で重要な役割を果たしています。瞑想的な作風が私の音楽の中心にあるとしても、それを異なるスタイルやアプローチと融合させることで、新たな視点や感覚を生み出すことができるのです。《Curling Music》はそのような実験的な一面を持っている作品と言えるかもしれません。
西垣:私の解釈ですが、ストーンの動きを音楽化する行為は、あなたが繰り返しやってきた自然を音楽化する行為と同じようにも見えます。また、《Curling Music》の引き延ばされた弦楽器の音は、ともすれば「瞑想的な」と形容することも不可能ではないかもしれません。
フロスト:おっしゃる通りです。ストーンの動きを音楽化する試みは、自然を音楽化する試みと類似しています。両方の場合において、音楽が実際の物理的な要素や現象を捉え、音楽の言語に翻訳することで、新たな聴覚的な体験や表現が生まれるのです。《Curling Music》の引き延ばされた弦楽器の音も、確かに瞑想的な要素を持っていると捉えることができます。長く続く音の流れや繊細な音色は、聴衆に静寂や内省を促すかもしれません。音楽は人々の心に対して異なる感情や反応を引き起こすものであり、その解釈や受容は個人の感性や経験によっても異なるものです。ですから、《Curling Music》が瞑想的であるかどうかは、聴衆の解釈や感じ方による部分もあると言えます。作曲家の意図と聴衆の受容の間には、個人的な解釈の幅が存在することを忘れずに、多様な感性が作品に対して持つ可能性を認めることが大切です。