二瓶治

1980- | 日本

馬場悠人による二瓶治|回想と紹介

人物・来歴
大学進学をきっかけに上京することになり、初めての引っ越しをすることになった。片付けをしていたさいに引き出しから小学校の夏休みの絵日記が出てきた。

絵日記(2011年8月25日)
3年2組 馬場ゆう人
最近宿題ばかりしているので、遊びに行けません。なので、さん歩をよくします。近所のくつかけ公園にいつも会うお兄さんがいて、今日も会いました。お母さんと一しょに話しかけると、ピアニストらしいです。ぼくもバイオリンを弾くのでいつか一しょにひきたいです。

絵日記(2011年8月27日)
3年2組 馬場ゆう人
ピアニストのお兄さんに今日も会いました。びょう気をなおすためにいつもさん歩してるらしいけど、さん歩でなおるびょう気ってあるのかな。お母さんに聞いたら「よくわかんない」と言ったけど、先生は知っていますか。


ここに出てくる「ピアニストのお兄さん」とは​​ピアニスト・実験音楽作曲家である​​二瓶治で、私の愛読雑誌『Cōnātus』の創設者であり編集長も務める人物である。

幼いころからクラシック音楽の教育を受け、京都市立芸術大学ピアノ科を主席で卒業、しばらく修士課程に在学しながらプロの演奏家として生計を立てた。彼の演奏の特徴はどんな演奏でもさらっと味をつけずに弾きこなすことであった。彼は人々の間で熱烈な支持を受けファンも少なくなかったが、修士課程在学中、彼は自分の演奏の質素さはその音楽に全く興味を持っていないからだと気づく。その瞬間の衝撃を彼はこう書き残している。

「僕にとって演奏はスポーツでしかない。いや、スポーツ以前、あらかじめ決定されたトレーニングメニューでしかない。楽譜は指示書でしかない。それなのに興奮に顔を上気させて感動を伝えてくれようとする人がいる。お金を払う人がいる。僕のせいで音楽を諦めた人がいる。僕は詐欺師でしかない。」

修士課程を中退し、この一年後、彼はキャリアを引退し、二年間の隠居生活を送る。さらに交際していた女性が自殺し、彼は精神的なダメージを負うこととなる。大学時代の友人であった荻屋晴夫がこのことを知り、精神科の受診をすすめ、最終的にうつ病の診断を受ける。

この時に勧められたのが散歩療法であった。散歩をしながら、二瓶は町の中での音に注目するようになる。演劇家として活動していた荻屋からの影響で生まれたのが『街中の音楽』である。初演は荻屋が主宰する野外劇団『はるかぜ』のもとで行われた。『はるかぜ』は日頃から公園や広場などの野外で公演を繰り返しおこなっていた。
主な作品
《街中の音楽》(2009)
街中にあるものについて、その演奏方法が細かく定められている。例えば枝のつき方に従って木を叩いたり、交差点を通る車が曲がる方向によってある音高の声を出す、など。数十人の演者が同時多発的に同じルールに従って演奏を行う。
実施例
2009 年 10 月、東京都銀座の路上で初の公演が行われた。この公演には 38 人の演者が参加し、同時多発的に演奏を行った。演者たちは事前に細かく定められたルールに従い、それぞれの担当エリアで以下のような活動を行った:

●街路樹:演者は街路樹の枝の配置に従い、指定されたリズムで枝を叩く。これにより、樹木の自然な音が一種のパーカッションとして使用された。

● 交通信号:演者たちは交差点で信号の変わるタイミングに合わせて異なる音を発した。赤信号で低い音、青信号で高い音を出すことで、交通の流れが一つの音楽的なフレーズとして表現された。

● ビルの壁::ビルの壁に設置されたタイルのパターンを楽譜として読み解くルールが事前に与えられ、演奏者たちはそれに従って演奏を行う。

山中駿による《ガードレールミュージック》
|解説|交通音楽博物館カタログより

Kong Junxi(Carter)二瓶治の共同制作。参加者が一列に並んでガードレール沿いを歩きながら、ガードレールに付着している汚れを紙に記録し、その後ガードレールの支柱から支柱までを1小節とみなし、記録した汚れを音符に置き換え、参加者全員の音を合わせるという手法で作曲を行った。《ガードレールミュージック》では、曲の後半になるにつれて音にまとまりがなくなっていくが、これは参加者が歩き続けて疲れてしまったからである。

田部留以による二瓶治|日記

2006年3月21日

みんな口をそろえて、あいつ(引用者註:二瓶のこと)の演奏のことをさっぱりしただとあっさりだの評価するけど、本当に耳あるのかな。本当はギットギトで油まみれって感じの演奏だし、実際あいつ毎日豚骨ラーメン食べているくらいのフリークだし。‍
偽実験音楽史アーカイブサイトに、両者の許可を取った上で引用。

西垣龍一と原田恵による二瓶治|往復書簡

二瓶治さま、

お忙しいなか時間をとっていただきありがとうございます。

改めまして簡単に自己紹介しておきますと、私(西垣龍一)は現在東京大学の大学院に所属しており、研究と実践の両面から音楽に取り組んでいます。いまは歩くこと(walking)との関連において音楽について考えており、そこから二瓶さんに関心を持ちました。したがって、詳しくお聞きしたいのはもちろん2009年の《街中の音楽》ですが、まずはそこに至るまでの過程を教えていただきたいのです。

①二瓶さんの生い立ちについて、公にできる範囲で構いません、何か教えていただけるでしょうか。とくに、周囲の環境がどのようなものであったか、どのような音楽教育を受けてきたのか知りたいです。

②京都市立芸大を卒業し、ピアニストとして生計を立てていたとのことですが、このころのことについて教えていただけるでしょうか。どのような活動をしていたのか、具体的に教えていただきたいです。

③「僕にとって演奏はスポーツでしかない。いや、スポーツ以前、あらかじめ決定されたトレーニングメニューでしかない。楽譜は指示書でしかない。それなのに興奮に顔を上気させて感動を伝えてくれようとする人がいる。お金を払う人がいる。僕のせいで音楽を諦めた人がいる。僕は詐欺師でしかない。」という言葉を遺し、その翌年にピアニストを引退したというエピソードが知られています。このエピソードは本当でしょうか。そうだとすれば、これはいつのことでしょうか。

④《街中の音楽》の誕生のきっかけとなったのは大学時代の友人、荻屋晴夫さんだそうですが、大学時代の荻屋さんはどのような方だったのでしょうか。また、荻屋さんとはどのような関係にありましたか。

以上、答えられる範囲で構いません。ご返信お待ちしています。

西垣龍一
東京大学総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース修士課程2年




















































西垣くん

まず、僕の生い立ちだけど、父がものすごくクラシックを好んでいた。父の薦めでクラシック音楽の教育を受けていたよ。僕自身も楽しんで積極的にクラシックに触れていた記憶がある。父の書斎は、活字より楽譜の方が多かった。そういうふうに、当たり前のように音楽に触れていた。

ピアニストとしての活動は、機械のようにコンサートに出ていた期間があった。ありがたいことに、多くの人が僕を呼んでくれたから。そこに特別な目標も何もなかった。ただ、僕がそこに行って、弾く。ただそれだけだったよ。西垣くんが挙げてくれた僕の言葉も、まあ当時のことはよく覚えていないから確実なことは何も言えないけれど、そういう単調な生活のなかで書いた言葉なのではないかと思う。ただ、その言葉と僕のキャリア引退とにはそこまで強い関係はない。一体どこの誰がでっちあげたエピソードなのかね。ピアニストを辞めたのは、2006年のことだけど、僕がそういうことを言ったとするなら、おそらく2004年とか2005年ぐらいのことだと思うから、だいぶ時間が空いているんだ。

さて、最後は荻屋のことについてだね。彼は、大学在学中は、もちろん今もだけど、演劇に夢中な少年だった。常に演劇のことを考えている。実験音楽家として認識されることが多くなってきたけれど、彼自身は実験音楽を追い求めているつもりなんかなくて、ぜんぶ演劇の延長線上としてやっているんじゃないかな。少年、と彼のことを形容したように、普段は年齢に不相応な無邪気さがあって、若々しいなと常々思うよ。パブリックイメージとは少し離れているかもしれない。でも、僕がいろいろあった時にも、気にかけてくれたのは荻屋だったし、彼が劇団『まちなか』を結成したときにも、僕に声をかけてくれた。僕のことを結構気に入ってくれているのかもしれない。彼に直接そういうことを言われたことなんか一度もないんだけどね。

二瓶治
二瓶治さま、

二瓶さんと西垣さんの往復書簡を大変興味深く拝読いたしました。二瓶さんの生い立ちやこれまでのご活動について、もう少し詳しくお聞きしたいことがいくつかあります。

①ピアニストを引退された理由やきっかけについて、もしよろしければ教えていただきたいです。そして、その後の道はどのように決め今に至るのか、お聞きできますと嬉しいです。

②お父様がクラシックを好んでいたとのことですが、お父様も何か演奏活動等をされていたのでしょうか。ご兄弟など、他のご家族からも、音楽や芸術の影響は受けましたか。

③荻屋さんとの出会いがとても気になります。お互いにどのように出会ったのか、はじまりとこれまでの関係性について教えていただけますか。もしよろしければ、お返事いただけますと幸いです。

原田恵
東京大学大学院教育学研究科学校教育高度化専攻・教職開発コース修士2年




















































原田くん

ピアニストを引退した理由か。音楽と距離を取りたかったから、かな。僕は当たり前のように音楽の道に進んでいったけど、それでいいのか、と思ったんだ。やめていた時期に色々あったけどね。でも結局、僕は音楽家になってしまった。そこには荻屋との出会いとか、まちに対する興味とか、さまざまな要素があって、僕は音楽に引き止められた。不思議だね、人生っていうのは。

父が実際に演奏をするところは見たことがない。もっぱら鑑賞する人だった。本当に幼い頃に姉がバイオリンを習っていたそうだけど、それも演奏しているところを見た記憶がない。数年だけ音楽をやったのちに姉が諦めてしまったから、僕に熱心に音楽をやらせたのかもしれない。ただ、ひとつ言えるのは、みんな音楽を間違いなく愛していたんだ。父はオーディオの配置にこだわって、音楽をいつも流していた。母はクラシックよりもポップスや(意外にも)ロックを聞いていて、よくライブに連れて行ってくれた。家族にまつわる記憶の中には、いつも音楽があるよ。

荻屋との出会いについては……もう本当に何十年も前のことだから、どれが初めて出会った時の記憶なのかが定かではない。彼、いつ会っても初めて会ったような素振りをする気がするんだ。未だに。ただストリートアクトをやっていたのは何度か見かけていて、とにかく面白いやつだと思ってある時声をかけた。その日のうちにちょっとした曲をつくって、彼に送ってね。そうしたら、次の月の公演でそれを使っていたんだ。僕は何も聞いていなかったけど、公演が素晴らしかったから、また曲を送りつけたよ。そんなゆるい繋がりがあった。そんなところかな。

二瓶治