荻屋晴夫

1980- | 日本

bashi0880による荻屋晴夫

荻屋晴夫(おぎや はるお、1980年6月8日 - )は、日本の劇作家、実験音楽家。
人物・来歴
荻屋は地方で政治家の斡旋を行っていた有力家に生まれる。彼は政治家になることを嘱望されていたが本人は全く政治に興味が持てず、親に内緒で京都市立芸術大学で演劇を専攻した。在学中、寺山修司赤慎吾道尾歩に影響を受ける。大学では当時既に名の売れた演奏家であった二瓶治と出会い、音楽家たちと関わるうちに実験音楽を志すようになった。その時期に発表されたのが、代表作《楽譜を捨てよ、町へ出よう》である。この作品には彼が大学の時にオリエンテーリング部に所属していた影響があると言われており、本人もそのことについて言及している。荻屋はそののち劇団『まちなか』を結成し、2010年に二瓶と再会、活動を共にするようになる。
主な作品
《楽譜を捨てよ、町へ出よう》(2003)
寺山修司の没後30年に際して発表された荻屋による実験音楽のプロジェクトである。このプロジェクトでは、演奏者と観客にはその街の詳細な地図が配られる。地図には特定の点がプロットされており、それぞれの点に到達すると演奏に関する指令が示される。この指令には、必ず街中の人々とのインタラクションが含まれる。例えば、通りすがりの人に向かってカエルの歌を歌う、商店街で店主と即興のデュエットを行う、公園の噴水の音に合わせてリズムを取るなどがある。
実施例
2003年5月、東京の下北沢で最初の公演が行われた。この公演では、以下のような指令が含まれていた:

北口商店街: 参加者は商店街の入口で赤い帽子をかぶった人に向かって、開口一番「かえるの歌」を歌うよう指示された。赤い帽子の人の内の一人は実際の商店街の常連で、事前に輪唱でそれに応えるようにあらかじめ指示されていた。それと同時に北口商店街のなかのいくつかの古着屋に協力を求め、赤い帽子を一個50円という破格の値段で売り出してもらうこととした。これにより事情を知らない人に向かって歌いかけることが意図された。多くの場合参加者は怪訝な目を向けられたが、応えてもらえる場合もあったという。

駅前広場: 広場の噴水の前で参加者は楽器を取り出し、噴水の水音に合わせて即興演奏を行うよう指示された。観客として集まっていた人々にもカスタネットなどの楽器が配布され演奏するよう指示をうけた。

カフェ「喫茶ぺペロ」: 参加者はカフェにてガトーショコラを頼むよう指示され、注文するとオーナーと即興の詩の朗読が始まった。オーナーもまたその場で即興の詩を作成し、デュエット形式で朗読が進められた。ガトーショコラは通常のメニューに掲載されており、それを知らなかった客に対しても同様のことを行うことが求められた。

西垣龍一と原田恵による荻屋晴夫|往復書簡

荻屋晴夫さま、

お忙しいなか時間をとっていただきありがとうございます。

改めまして簡単に自己紹介しておきますと、私(西垣龍一)は現在東京大学の大学院に所属しており、研究と実践の両面から音楽に取り組んでいます。いまは歩くこと(walking)との関連において音楽について考えており、その際(荻屋さんの友人である)二瓶さんのことを知りました。しかし、二瓶さんのことを調べていくうちに、荻屋さんの存在が重要であるという考えに至りました。

はじめに、荻屋さんの生い立ちから聞いていきたいと思います。

①荻屋さんの家庭は地元の有力者であったそうですが、どのような環境で育ちましたか?芸術が身近にあるような環境だったのでしょうか?答えられる範囲で構いませんので、教えていただきたいです。

②親からは政治家になることを期待されていたが、内緒で京都市立芸大に進学されたというエピソードは本当でしょうか。また、京都市立芸大では演劇をやられていたということですが、私の知る限り京都市立芸大には演劇専攻は存在しないと思います。どの専攻に所属していたのか、どのように演劇活動をしていたのか、といったあたりについての事実関係を教えていただけますか?

まず、上記二点、よろしくお願いいたします。

西垣龍一


























































拝啓 西垣龍一様 

この度はお手紙を頂き、誠にありがとうございます。荻屋晴夫と申します。

私の音楽について関心をお持ちいただき、大変光栄に存じます。 往復書簡の形式でのインタビューというご提案、非常に興味深く感じました。音楽という瞬間的で流動的な芸術を、文字という静的な媒体で表現することは、それ自体が一つの実験になるのではないでしょうか。  

いただいたご質問に関して、一つずつお答えしていければと思います。

①私の生まれ育った家は京都の貝屋町というところにあります。かなり歴史の古い家で、幼いころによくその話を聞かされたような気がするのですが、くわしくは覚えておりません。裕福な家であったことは間違いないですが、あまり贅沢はさせてもらえませんでした。身近に芸術があったかというご質問ですが、行ってしまえば極端にそうしたものとは縁遠い家庭だったと記憶しております。父が非常に気難しい人で、芸術を好まなかったのかもしれません。家の蔵に古美術の類いはあったと思うのですが、それさえ蔵にしまいっぱなしという状態でした。

②大学に進学した経緯としましてはご認識の通りで間違いありません。私は当時次第に自分の実家に嫌気がさしておりまして、なんとしても家業からはなるべく離れたことをやってやろうという気持ちで、特に下調べもせずに京都市立芸術大学に進学しました。当然親には猛反対されることはわかり切っていたので、京都大学を受けたと親には言って、二年生まではそのことを隠し通しました。当時所属していたのはデザイン学科ですが、かなり自由な学風の場所で、街中の空間デザインの一環として当時からストリート演劇のようなことばかりやっておりました。おそらく二瓶君も私のことを「演劇をやってる人」と認識していたと思います。 ​​​​​​​​​​​​​​​​

このような形でいかがでしょうか。いただいたご質問に対する回答になっていれば幸いです。

お返事をお待ちしております。 

敬具 荻屋晴夫
荻屋晴夫さま、

お忙しいところ、お返事を頂きましてありがとうございます。東京大学の大学院に所属しております、原田恵と申します。普段はフィンランドの音楽教育を研究しておりますが、演奏におけるエアーなど、音楽と行為の関係性に関心を持っており、西垣さんと共に、歩くこと(walking)を探求しています。

荻屋さんと西垣さんの往復書簡を大変興味深く拝読いたしました。荻屋さんのこれまでのご活動について、もう少し詳しくお聞きしたいことがいくつかあります。

①生まれ育ったお家では、芸術が身近にあるわけではなかったとのことですが、現在、荻屋さんが芸術分野においてご活躍されていることについて、ご家族の方はどのように受け止められておられますか。

②空間デザインの一環としてストリート演劇のようなことをされていたとのこと、初めてお聞きし、大変驚きました。音楽と荻屋さんの芸術がどのように出会っていったのか、詳しく知りたいです。

③《楽譜を捨てよ、町へ出よう》は大変有名なプロジェクトですが、このプロジェクトの中では、町中の人々とのインタラクションが必ず行われることになっていたかと思います。一つ一つのインタラクションが生まれるためには、それまで(そしてそれ以降、最中)に「歩く」という行為が必ず存在すると思うのですが、このプロジェクトを通じて歩くこと(walking)について考えたことや発見されたことなどがもしございましたら、教えていただきたいです。もしよろしければ、お返事いただけますと幸いです。

原田恵
東京大学大学院教育学研究科学校教育高度化専攻・教職開発コース修士2年


























































拝啓 原田恵様

初めまして、荻屋です。

風の噂で西垣様がご多忙だというお話を聞き、少し心配しております。暑い中ですが、原田様もどうか体調に気をつけてくださいね。

さて、いただいたご質問についてお答えしていきたいとおもいます。

①大学三回生になろうかという頃、私が演劇をやっていることが家庭内で明るみに出てしまいました。きっかけは私がまたストリート演劇をやっていたところにたまたま父が通りかかったことです。当然のように父は大激怒しまして、それをきっかけに私はほとんど家に帰らなくなりました。その時は会場が京大の近くだったので、父はまだ私が京大に行っていたと思っているかもしれないですね。そこから私は演劇仲間の家に泊まっては、昼間は京大の西部講堂前にあった大きなテントの中でほとんどの時間を過ごす生活をしていました。父と絶縁したことをきっかけに京大に通うようになったわけです。

ですから、現在家族がどう考えているかはわかりません。少なくとも私のことをよく思ってはいないでしょう。ただ、一度だけ私が京都駅で演劇をしているところに父が観客として立っていたことがあります。あれは今の京都駅ビルができたばかりの頃でした。父は歳を取っていましたが、昔と同じ気難しい顔で、眉間に皺を寄せて迷惑そうに劇を見ていました。劇が終わるまで、父はそこにいました。劇が終わると、私が声をかける前に雑踏の中に消えてしまいました。父がその時どんな気分で私と私の劇を見ていたのか、私には知る由もありません。

②私は、家庭環境のせいもあり大学に入るまでほとんど音楽に触れたことがありませんでした。音楽に興味を持ったのは二瓶君の影響です。まだ私がまともに市芸に通っていた頃のある日、二瓶君から唐突に演奏会のチケットをもらいました。当時から彼の名前は有名だったので、それなりに大きなホールでした。とても良い席を用意してくれたのだと思います。二瓶君はショパンを淡々と弾いていました。私は音楽の素人でしたが、それでもわかるほど、彼はテンポや強弱を機械的につけて弾いていました。

でも、それが良かったのです。寺山修司の演劇とチェーホフの演劇とは全く違います。父の書斎に一冊だけ寺山修司の本があり、高校生の時にそれを読んだ私は夢中になりました。町で目にするさまざまなものは背後に膨大な物語が潜んでいるはずですが、私たちは普段それらを観ないように生活しています。寺山の演劇はそれを少しずつ暴いているような気がしたのです。私の好きな劇作家に道尾歩という人がいます。彼は社会学者であり、政治的テーマを全面的に押し出したストリート演劇を80年代にやっていました。互いを知らない人々が団結して劇中歌を歌ったりしたこともあったようです。大学在学中にこれを知った時には感激しました。その一方で、こうも思いました:町で見かける見知らぬ人々はもはや政治的にしか団結できないのだろうか、と。

二瓶君の演奏はチェーホフ的でした。私たちは人生で色々な感情を経験するけれど、それでもなお淡々と与えられた人生を歩まなければならない……。表情一つ変えずに演奏を続ける二瓶君の顔を観ながら、私は彼をソーニャと重ね合わせていました。そして、演奏が終わるとスタンディングオベーションがおきました。その瞬間、私はこれだ、と思ったのです。音楽を通じてなら、人生そのものに存在するつらさを、それでも日々淡々と歩みを進めなければならないという諦観を、街中の見知らぬ人同士が共有できるのではないか、そんな風に思ったのです。

③歩くこと(walking)に関しては私もいろいろ考えていた時期がありました。ちょうどあげてくださった『楽譜を捨てよ、街へ出よう』をやっていたころの手記にそんなことを描いていたな、というのを思い出したので、恥ずかしいですが引用してみますね。

歩くとき、僕たちは歩くこと(walking)という存在になる。これは動名詞というよりは現在分詞的な意味。フランス語でいえばmarchant、イタリア語ではandanteだ。アンダンテは静の予兆としての遅さと、動の象徴としての速さのちょうど中間にある。歩くとき、僕たちは様々な軸で両極のちょうど真ん中に位置する中間者となる。静と動、精神と身体、公と私、内と外、瞬間と永遠。

僕の演劇は、歩くことなしには成立しない。軸のどちらかに偏った状態では、「確定した」状態では、何も生まれない。インタラクションなんかしてもしなくてもいい。でも、全く起きないとしたら、その空間に不確定が存在していない。健全な歩行が何かに妨げられていると考えるべきだ。

いかがでしょうか。少しでも参考になれば幸いです。
お返事をお待ちしております。 

敬具 荻屋晴夫
荻屋晴夫さま、

西垣です。お世話になっております。ご心配をおかけしてすみませんでした。立て込んでおりまして、共同研究者の原田さんに任せてしまいました。ここからは再び西垣から質問させていただきます。

と言っても、原田さんと荻屋さんの対話の中で非常に多くのものが明らかになったと(私は)思いますし、「歩くこと(walking)」についての話など、もうこれ以上聴くのは野暮という感じがしてしまいます。しかしそんなことを言ったらこんな往復書簡じたいが野暮なのであって、もうここまで来てしまった以上引き返せない、そんな気もします。

どうでもいいことをつらつらと書き連ねてしまいましたが、まだ残っている質問をします。どうぞよろしくお願いいたします。

原田さんとのやりとりのなかで、荻屋さんが音楽に興味を抱いた経緯については理解しました。しかし、ふしぎな点が残っています。《楽譜を捨てよ、街に出よう》が、私の理解では、「音楽作品」として提出されているということです。たしかに初演では「かえるの歌」の輪唱や楽器の即興演奏が含まれていました。しかし、この作品の指令は必ずしも一般的な意味で「音楽的」なものだけではないはずです。仮にそうだとすれば、これは「演劇作品」として、あるいは「ダンス作品」として提示されてもよかったはずです。

荻屋さんはこの作品を「音楽作品」として考えていますか。「音楽作品」であるならば、なぜこれは「音楽」なのでしょうか。

ご回答、お待ちしています。
よろしくお願いいたします。

西垣龍一


























































拝啓 西垣龍一様

ご多忙の中お返事をありがとうございます。 

確かに自分の作品をはっきりと説明してしまうのは野暮かもしれませんが、私はこの期に及んで改めて当時のことを考えると多くの発見があり面白いです。このような機会を頂けたこと、感謝申し上げます。

《楽譜を捨てよ、街に出よう》を音楽作品として扱った経緯については、当時のことをはっきりと覚えているわけではありません。もちろんお話しできることはありますが、その後20年間の間に考えたことが多くあることをご了承いただけると幸いです。また、明確な結論があるわけではないことを最初に申し上げておきます。私は、配布した地図の裏側に載せた声明文でこの作品を完全な音楽作品として扱いました。それまで劇作がメインであったので、隠喩的に受け取られても仕方ないとは考えたのですが、私はきわめて真剣にこの作品を音楽作品と捉えています。

音楽と演劇の違いは繰り返しにあります。音楽は同じ主題が何度でも繰り返し登場しますが、同じものを二回繰り返した『ゴドーを待ちながら』はスキャンダルを起こしました。繰り返しというのは前回の記憶との同一性で成立するものです。音楽は記憶・同一性、演劇は経験・一回性とでも対応付けられるでしょうか。ここまでくれば何となくお気づきかもしれませんが、私にとっては音楽は淡々と繰り返す日常と、演劇は非日常、例えば政治的な事象なんかと、結びついていたんじゃないかと思います。

《楽譜を捨てよ、街に出よう》ではっきり意識していたのはアラン・カプローのハプニングです。おそらく私のことを彼の後継者と捉えている人もいるでしょう。カプローにとって町というのは演奏者に取っての環境でしかありませんでした。また、名前から明らかなようにハプニングは非日常に属しています。私が目指していたことは町とそれを構成する人々の背後にあるただのつまらない日常を現前化することでした。そのためには演劇ではなく音楽という手段を取る必要があったのです。

このような感じでいかがでしょうか。おおむねこのようなことを考えていたような気がするのですが、定かではありません。

この回答が少しでもお役に立てることを祈っています。

敬具 荻屋晴夫