西垣龍一

2000-  |  日本

西垣龍一による西垣龍一|プロフィール

北海道出身。制作と研究の両面から音楽(やその他の芸術)に取り組む。2026年には作曲家イザベラ・フロストを日本に招待し、インタビューを含む演奏会を開催した(9月10日、東京、ハルモニアホール)。音楽作品に《移動するピアノと移動する指揮台、駒場にある音楽実習室のための(Mobile Piano and Mobile Rostrum for the Music Practice Room at Komaba)》や《拡張カリンバのためのスタディ(Study for Extended Kalimba)》シリーズなど。詩作品に詩集『N←S指向』『クリティカホリック』のほか、「俺の野兎」(『インカレポエトリ』5号所収)、「季節外れのバレンタイン(プリパレーションの案)」(『東大詩人界』創刊号所収)、詩的座標実験シリーズ(『インカレポエトリ』7、8号ほか所収)など。

西垣龍一による「WALK THE MUSIC」|論文

音楽(じゅう)を歩き(回ること)/音楽を(引き連れて)歩く(こと)
ひとには歩く自由がある——「歩くうた」谷川俊太郎 
現在の音楽文化を思い浮かべてみても、音楽と歩行との繋がりは希薄に思える。いや、よく考えてみれば音楽の場で歩いている人はいるに違いないのだが、徹底して非-音楽化する方向で進められているようだ。コンサートの最中に会場に遅れてきた観客は肩身を狭くしながら「歩いて」席に着く。ピアニストは「歩いて」ピアノの前に立ち、それからお辞儀をする、観客は拍手する、歩くのは文字通り「音楽以前」とみなされている。音楽のなかで歩くことがもっとも不自然ではなさそうな(クラシック/ポピュラー問わず)歌手でさえ、ただ「歩く」よりかは多少なりとも何らかの身振りをつけることによって、その余りに単純な振る舞いを紛らわせようとする。音楽は歩くことを徹底的に忌避して遠ざけようとしているのだ。 

……などという見立ては、もちろんちょっとした弁論術にすぎない。実際には音楽と歩くことが深く関連しているような事象は歴史的にみていくらでもある。ここで丹念に「歩行と音楽の関係史」を追っていくことはしないが、簡単にいくつかの例を挙げてみるだけでもその関連性は掴み取ることができるだろう。 

そもそも音楽におけるテンポや拍子は歩くことと切り離して考えることはできない。速度標語のアンダンテ(Andante)はイタリア語で行く(go)ないし歩く(walk)を意味する「Andare」に由来するものであり、2拍子の楽曲形式である行進曲(march)も歩調を表象していることは明らかである。 

古典的な「音楽-歩行関係史」においてまず念頭に置かれるのは、プロムナード・コンサートであろう。今では肩肘張らずに鑑賞できるコンサートという比喩的な意味で用いられるこのコンサート形式は、17世紀にロンドンで登場した当初は文字通りの意味であった。つまり、公園や庭園を会場とし、観客は遊歩しながら音楽を楽しむコンサートのことを言っていたのだった。 

プロムナード・コンサートというタームが「比喩的に」使用されるようになるくらいには、音楽体験というものは肩肘張ってなされるべきものだという先入観は19世紀末までに根付いてしまったのかもしれない。ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)の言葉を借りるなら、「〈生活〉態度をぬぎすて、王侯の態度を身につけて座席につく」 ようになってしまった。歩くことは〈生活〉の範疇に属する振る舞いであって会場に入るときには脱ぎ捨てなくてはならないのだった。 

もちろん、ブレヒトはその「おかしさ=可怪しさ/可笑しさ」を喝破したわけである。「そうするのがおかしいことくらい、王侯の態度はチーズ商人の態度よりもよいという偏見さえなければ、誰にだってわかるだろう。」  

19世紀までに最大限に築きあげられた生活空間と劇場空間の間の落差は、こうして20世紀に問い直されることになった。音楽においてはジョン・ケージ(1912-1992)およびケージ以後の時代において中心的に扱われた。そのような文脈において、「歩く」という行為もまた音楽の一つの主題となったのだ。 

ケージの《ミュージック・ウォーク》(1958)がまずは当然思い出されなくてはならない。ケージのほかデーヴィッド・チュードア(1926-1996)とコーネリアス・カーデュー(1936-1981)の三人によってデュッセルドルフで初演が行われたこの作品はマース・カニングハムのダンス作品のための音楽であり、一人または複数のピアニストのために書かれている。「はじめにどこに行くかを決定して、それから特定の時間そこに留まるか、それとも特定の場所に移動してそこで時間を費やすかを決定する。」 この作品では「歩く」という行為にとりわけ強い意味を与えられているわけではないが、ケージにとって音楽の「シアター化」に寄与するものとして機能していると言えるだろう。ピアノの前に座っているはずのピアニストがピアノの周囲に「歩いて」いって様々な振る舞いをする、そのことを作品のフレームに押し込めたのだ。まさに通常のコンサートでは音楽外のものとして無視することが規範化されている舞台袖からピアノへの、あるいはピアノから舞台袖への歩行のようなものが、ここでは音楽として浮かび上がってくる。 

ケージは翌年、歩行にさらに「水」という要素を付加させた《ウォーター・ウォーク》(1959)を作曲する。これ以後、「歩く音楽」という観点でいえば、わずか数年、十数年のうちにいくつもの重要作が誕生している。時系列にみていこう。 

まず、日常の作品化/音楽化を主に取り扱っていたフルクサスは、当然ながらよく「歩行」を作品化した。エメット・ウィリアムズ(1925-2007)の《不確定な時間のうた》(1960)はペットボトルを頭に乗せてそれが落ちるまで歩き回る。ベン・ヴォーティエ(1935-2024)による《スマイル》(1961)は5人のパフォーマーがスマイルしながら歩く作品。ミラン・クニザク(1940-)の《ウォーキング・イヴェント》(1965)は混雑した都市の大通りの歩道に三メートルの円をチョークで描き、その線上を歩きつづける。 

フルクサスに参加した日本の作曲家にも同様の作品がある。小杉武久(1938-2018)の《シアター・ミュージック》(1964)。水野修孝(1934-)、塩見允枝子(1938-)、刀根康尚(1935-)ら東京藝術大学音楽学部楽理科の学生で1960年に結成したグループ「グループ音楽」で活動を開始し、一柳慧(1933-2022)の紹介を受けてフルクサスにも参加、1964年の「マース・カニングハム・ダンス・カンパニー」初来日の際にはケージやチュードアと共演した小杉は、まさにその1964年の作品で「歩く」ことに焦点を当てている。《シアター・ミュージック》のスコアに書かれているのは「ひたすら歩きつづけよ(Keep walking intently.)」の三語のみ。ケージの《ミュージック・ウォーク》に見られる拡張的傾向とは鮮やかなほど対照的に、「歩く」という行為だけに音楽が凝縮されている。そうしたことを考え合わせると《シアター・ミュージック》というタイトルに「ひねり」が感じられるようになる。 

次にマックス・ニューハウスによる《リッスン——音環境を探し歩くフィールド・トリップ》(1966-1976)は、日常的な環境音に耳を澄ませることで新たな聴取体験を生み出そうとする「サウンド・ウォーク」である。マリー・シェーファー(1933-2021)によって提唱された「サウンドスケープ」の概念とも強く結びつくこの試みは、環境音を「音楽=聴取に値する音」とみなすという点でケージを引き継いでいる。 

ここで一旦音楽の外に目を向けて見ると1967年にはイギリスの美術家リチャード・ロングが「歩行による線」を制作している。草原を歩行した痕跡を作品化したこの名作がこの時代に誕生したことは興味深い事実であり、また歩行と「サイト・スペシフィック」概念との結びつきを考えるにあたっては端緒ともなりそうだ。 

そしてマイケル・パーソンズ(1934-)による《WALK》(1969)。本年、筆者らが企画者となり「第31回東京大学教養学部選抜学生コンサート」にてこの作品の再演を行った。その菜園も含め、《WALK》については本冊子で詳細に検討されることになる。 

スロヴァキアの作曲家ラディスラフ・クプコヴィチ(1936-2016)は1970年ごろから「ヴァンデル・コンツェルト」というパフォーマンス形式を発明した。これは、コンサート会場の複数の場所で演奏が行われ(同時に行われることもある)、観客は歩きながら音楽を楽しむというものであり、ここにきてまるで「プロムナード・コンサート」が回帰してきたかのように見える。ケージの《ミュージサーカス》(1967)なども類似のコンセプトを持っているといえるが、むしろこのような形式は現在においては美術館などで開催されるコンサートではしばしば見られる光景である。 

パーソンズとともにアマチュアによる特殊な音楽集団「スクラッチ・オーケストラ」の設立メンバーでもあるコーネリアス・カーデューの《大学》(1971)の「第7パラグラフ」はスクラッチ・オーケストラのために書かれた合唱作品だが、メンバーひとりの音を聴いてその音高に合わせて歌うという仕掛けになっており、その音を判別するために会場を歩き回ることになる。 

1979年にはソニーがウォークマンを発売した。「歩く人」という商品名を持つこの音響機器の発明は、歩行が音楽を支配した瞬間とも捉えられようか。「歩行が」という主語を「人間が」、「身体が」というふうに置き換えることもできそうだ。その証拠にウォークマンの広告にはブラジャーのなかにウォークマンの下半分くらいをしまい込んだエロティックな女性と共に「音楽がいっそうカラダに近づいた」というキャッチコピーが刻まれている。 

ポーリーン・オリヴェロス(1932-2016)の『ソニック・メディテーション』(1974)や『ディープ・リスニング』(2005)にも「歩く」行為が重要となるワークショップはいくつも存在している。たとえば『ディープ・リスニング』の冒頭には「非常にゆっくりと歩く」と銘打たれたワークショップが組み込まれている。スローモーションで歩くことにより身体のバランスを理解することがここでは目指されている。「音楽がいっそうカラダに近づいた」というほどのいやらしいニュアンスはここにはないけれども、「ディープ・リスニング」の前提にはその聴取を司る身体があるということが強く意識されている。 

歩行と音楽の結節点だけを時代とともに追ってみるだけでも、簡単にこれだけの内容を見出せる。冒頭に提示した「現在の音楽文化において、音楽と歩行との繋がりは希薄である」というテーゼはやはり詭弁に過ぎなかったようだ。いや、それとも、希薄であるからこそ実験音楽家たちは歩行を音楽化しようとしたと、オリヴェロスは歩行から聴取のトレーニングを開始しようとしたと、言うべきなのだろうか。 

オリヴェロス以後の歴史について語ることは、あまりに現在の時点に近くなりすぎて困難である。だから少なくとも、ここ日本において「歩く」ことをテーマに取り組んでいる音楽家の例を少しばかり挙げておくことにしよう。 

まずは京都市立芸術大学の同期である荻屋晴夫(1980-)と二瓶治(1980-)の名前を挙げないわけにはいかない。荻屋は劇作家だが音楽家としての活動も重要であり、プロジェクト『楽譜を捨てよ、町へ出よう』(2003)は街中でのウォーキングを扱ったものだ。二瓶の《街中の音楽》(2009)も同様の方向性から歩行と音楽の関係性についてアプローチしている。この両者のインタビューが本冊子には掲載されている。 

東京藝術大学美術学部先端芸術表現科の教授である古川聖(1959)による「あるく!空間楽器コンサート」(2020-)はスマホを使用して地図上に音をマッピングしたもので、実際には歩かなくてもその場所のサウンドスケープを体験できるという、一種の「疑似散歩」として構想されている。コロナウイルス蔓延という社会情勢がそこには畳み込まれている。 

マリンバ奏者の野木青依(1994-)と音楽家のMC.sirafu、そしてコーディネーターの宮﨑有里(1995-)による「さんぽチーム」は、『すみだのかたち さんぽとライブ』(2023)で会場のある墨田区を参加者と散歩し、そこで撮影した写真をもとに即興演奏ライブを行うというイヴェントを開催した。 

音楽創作家の小栗舞花(1998-)、芸術社会学者の鈴木南音(1995-)、そして舞台演出家の熊谷ひろたか(1996-)からなるグループ「矢野かおる」はオリヴェロスの『ソニック・メディテーション』にあるワークショップ「ネイティブ」の指示文「夜、散歩をする。足の裏が耳になるくらいとてもゆっくりと歩く。」からインスピレーションを得て『足の裏で音楽を聴く』(2023)というプロジェクトを行っている。
西垣は歩行と音楽の関係について関心を持っており、その文脈で友人と協力してパーソンズ《WALK》上演の企画等を行った。そのような実践、調査、研究の成果を『WALK THE MUSIC』という冊子にまとめることにした。内容は、次のとおり。
・論文「音楽(じゅう)を歩き(回ること)/音楽を(引き連れて)歩く(こと)」
・二瓶治へのインタビュー
・荻屋晴夫へのインタビュー
・エッセイ「避けられなかった運命と、来るべき未来——伝説のアイドル・グループ「コミュ★ニス」をめぐって」
・蟹岸によるエッセイ「『歩く』ことの衰退:50年後の人々が音楽を取り戻そうとする方法」
・パーソンズ《WALK》の上演について(参加者の感想等)

西垣龍一によるコミュ★ニス|エッセイ

避けられなかった運命と、来るべき未来
——伝説のアイドル・グループ「コミュ★ニス」をめぐって


2020年7月の炎上。それが「コミュ★ニス」がもっとも有名になった瞬間だった。その炎上が過ぎ去って社会の関心が別の世界に移ったころ、彼女たちはもういなかった。こういうことは、とくにインディーズのアーティストにはよくあることだ。だけど、「コミュ★ニス」はちょっと違っていた。不注意や出来心から来るスキャンダルでも、売名目的の炎上でもなかった。「コミュ★ニス」という現象は何だったのだろうか、と3年が経とうとするいまでもときどきふと考えてしまう。 

僕が「コミュ★ニス」のことを知ったのは2019年のことだった。その年、僕は大学生になって地元の北海道から上京してきた。3月26日、父に手伝ってもらいながら引越をした。練馬区石神井台にある北海道出身者限定の学生寮に入った。グーグルのとてつもないストーカー能力の助けを借りると、僕がコミュ★ニスに出会ったのは4月13日のことだと分かる。神宮球場で午前中の母校となったばかりの東大は開幕戦で法大に完敗し(それから4年が経ち、10試合以上は観戦したけれど未だに勝利をこの目で見てはいない)、そのあと渋谷に立ち寄ったのだった。「スクランブル交差点」というものの存在はもちろん知ってはいたけれど、実際にそこに行ったのはこの日がはじめてだったと思う。「いなかもん」にとってそれは悪しき東京一極集中の象徴みたいなものだ。

彼女たちはいつものように《すくらんぶる★みゅーじっく》をやっていた。「隣の人と速度をそろえて、手拍子をしながら信号を渡ってね。」などと書かれた手紙をスクランブル交差点で信号待ちする人々に配りながら、メンバー自身もその指示に従ってスクランブル交差点を渡るというパフォーマンスである。この頃、「コミュ★ニス」は盛んにこのパフォーマンスをゲリラ的に行っていて、僕もそのうちの一日に偶々遭遇したのだった。なんだか変なことをやってるなあとは思ったけれど、上京したての僕にはこれが東京の「あるある」なのかもしれず、それっきり忘れ去ってしまった。

 「コミュ★ニス」が特徴的なのは、このような実験的なパフォーマンスをやっていたということよりも、それを「実験音楽」の文脈を引き受けたうえで実行していたということだと考えるべきだ。アイドル・グループが知名度向上のためになりふり構わず目立とうとして結果的に図らずも実験主義に接近する、ということはよくあることだ。「コミュ★ニス」のリーダーで、実質的にプレイング・マネージャーのような存在であった波浪アイは実験音楽家・二瓶治の《街中の音楽》に影響を受けて実験音楽に興味を持ったと明言している。

僕の知る限り、いわゆる「実験音楽」(experimental music)の文脈で活動を展開したアイドル・グループは未だかつて「コミュ★ニス」だけだ。「実験的」という意味でもっとも面白い活動を展開している富士山のローカル・アイドル「3776」(みななろ)でさえ、『公開実験』と銘打ったライヴ(少し離れた場所で同時に別々の曲が歌われる)を行っているものの、実験音楽史への配慮まではしていないだろう。 

2020年7月の炎上。それが「コミュ★ニス」がもっとも有名になった瞬間だった。と冒頭に書いたように、根強いファンが少なくなかったこのグループも、高い知名度を誇るには至らなかった。《すくらんぶる★みゅーじっく》以外の活動で目ぼしいものがなかったのも一つの要因であろう。

2020年7月、コロナ蔓延下でのパフォーマンスは《すくらんぶる★みゅーじっく★ハイパー》と題されていた。《すくらんぶる★みゅーじっく》と同様にスクランブル交差点で行われたそのパフォーマンスは大声で挨拶を交わしながら信号を渡り、青信号のメモリが少なくなるとともに声の高さを上げるという内容だった。当時の状況を鑑みれば炎上は避けられなかった。それでも「コミュ★ニス」はこの《ハイパー》をやらなくてはならなかった。おそらく波浪にとっては、「人と人との距離はとって、こころとこころの距離は密に」などというスローガンが掲げられ、zoom上で合奏や合唱が繰り広げられるような世界は信用ならなかったのだ。波浪は以前から「ツールを介さないコミュニケーション」に異様なこだわりを示していた。ツールを介することによって心理的な距離を縮めようと躍起になっている社会の中で、「他人につめたいこの世界、わたしたちがあっためる!」をモットーに活動する「コミュ★ニス」がやるべきことは《ハイパー》だったのだ。物理的な距離すなわち心理的な距離、というラディカルな態度がラディカルなパフォーマンスに結実したというだけの話だ。 

《ハイパー》は不可避だったし、その炎上も、そしてその後にやってきた活動休止も、すべて不可避だった。そのような運命については僕も幾分か同情する気持ちはある。それでも何か腑に落ちないところがあるのは、「コミュ★ニス」がアイドルという観点から見れば充分に画期的なグループだったとはいえ、色眼鏡なしに見たときには重大な問題を孕んでいるように思えるからだ。この連載は「音楽的な側面から」論じるということになっているし、彼女ら自身も「実験音楽」を標榜していたので厳格な批評も認容されるだろう。

問題と思われる点は列挙することになるが、まずは「スクランブル交差点」という場所自体が取り扱いの難しい場所だったということがある。都会の喧騒、現代社会の無機質さの象徴のようなこの場所が「あっためる!」格好のスポットであったのは理解できる。しかしスクランブル交差点は同時に、奇妙な振る舞いが同時多発的に起こっているスポットでもある。路上ライブ、性風俗求人アドトラック、コンセプトカフェか何かのティッシュ配り、ナンパ、怪しいYouTubeの撮影(そういえば今では地域貢献みたいな活動さえしているYouTuberがスクランブル交差点にベッドを置き大炎上、書類送検までされた事件もあった)など無機質な社会とはある意味では正反対の風景が見られる。「コミュ★ニス」の活動も、彼らの振る舞いとさほど変わらないものになってしまった。「文脈」は音楽批評にとってはともかく、SNS上では意味をなさないのだ。

次に、「あっためる!」ことを目論んだ彼女たちのパフォーマンス自体が、あまりに浅薄なコミュニケーションに立脚していたことも指摘しておかねばならない。「隣の人と速度をそろえて、手拍子をしながら信号を渡る」のも「大声で挨拶しながら信号を渡る」のも、表面上のコミュニケーション行為の次元に留まっており、はっきり言ってそれでは「絆」とか「心と心は密に」のような欺瞞的なスローガンとさして変わらないように思えるし、ツールを介したコミュニケーションとどっちがましなのかも分からない。大真面目に「あっためる!」を目指したはずなのに、作品化されるにあたって寓話化され、むしろ無機質な社会をパロディックに描いているかのように見えてしまった。

そして、その原因であるかもしれないのは、波浪が「実験音楽」に熱中していたことにあるようにも思われる。知識は強みであるのと同時につねに弱みでもある。知ってしまうのは怖いことだ。直接的なコミュニケーションを、手拍子や挨拶へと抽象化する営み自体が少し「音楽家」的すぎるように感じられる。

惜しむらくは、「コミュ★ニス」という5人のグループが、まるで波浪のグループであるかのように認識されてしまったことだ。実験音楽について知識も興味もなかった(と思われる)残りの4人がもっとコアの部分に参画出来ていたならばもう少し違った形の「コミュ★ニス」が見られたのかもしれない。

いろいろと不満を述べてしまったけれど、過去に対する不満は効力をもたない。ほんとうは未来についてしか考えるべきではないのだ。「コミュ★ニス」の未来について、あるいはあの5人の未来について、何を考えればいいのかは部外者には分からない。

3年が経つ。

2020年から社会は大きく変わったようにも見えるし、変わらないようにも見えるし、元に戻ったようにも見える。2023年のいま、ここに「コミュ★ニス」がいたなら何をするだろうか。そのように考えるのは楽しい。幸か不幸か「コミュ★ニス」の代わりになるようなアイドルは出現していない。そのようなアイドルの出現は待つだけ無駄だ、と誰かは言う。それならば、「コミュ★ニス」の復活を待ち望むことが僕たちにできることだろう。できることならあの五人で。こんな駄文が「コミュ★ニス」の目に留まることは決してないだろうけれど、そのような未来を駆動する最初の風になるべく僕はここに書きつけているのだ。
アイドル文化について専ら音楽的な側面からアプローチすることを目的としてはじめられた同人誌『音楽としてのアイドル文化』に西垣龍一が三回にわたって行なった連載の二回目。 

①「新垣隆はカントリー・ガールズヲタ⁉……では(たぶん)ない——新垣隆《インヴェンションあるいは倒置法Ⅲ》(2015)をめぐって」『音楽としてのアイドル文化』第1号、2022年。

②「避けられなかった運命と、来るべき未来——伝説のアイドル・グループ「コミュ★ニス」をめぐって」『音楽としてのアイドル文化』第2号、2023年。

③「ローカルアイドルはわらべうたをどう歌うか——「ばってん少女隊」《あんたがたどこさ〜甘口しょうゆ仕立て〜》(2023)《でんでらりゅーば!》(2023)を中心に」『音楽としてのアイドル文化』第3号、2024年。