田部留以

1969- | 日本

広田依式による田部留以|作家略歴

1969年生まれ。大学では作曲をそれなりに熱心に学んでいたが(わりとコンベンショナルな大学だったが、講義や友達との雑談で実験音楽の話題が出ることはあった)、二年生のときにはじめたイタリア料理店でのアルバイトに極度に熱中してしまい、三年留年する。そしてバイト先で徹底的に修業した結果、「食べることは他者を自分の一部分にする過程であるが、同時に自分の一部分を他者に受け渡す過程でもあり、食べることと食べられることの間に本質的な違いはない」、「自分の身体の中に他者を侵入させ、その他者に自分の身体を変化させる権利を与える営みであるという点で、音楽と食べることは同じである」という(過激なようで月並みでもある)考えに取りつかれるに至り、音楽と食事(料理)の境界を問う作品を制作するようになる。

卒業制作として作られたのが、1995年の《ベートーヴェンとしての弁当》である。これは、米、にんじん、牛などに対し、生前最後の5日間ひたすらにベートーヴェンの「運命」の録音を聴かせたうえで、それらで作った弁当は音楽であると強弁し、審査員の教授陣にふるまったものである。教授陣は困惑し激怒したが、イタリア料理店で六年鍛えた田部の料理の腕は確かなものだったので、総合的な評価は高く卒業できた。

現在の評価のきっかけになった作品の一つが、1999年の《バイキングメドレー》である。これは特定の食べ物についての言及がある過去の音楽(J-POPなど)十曲をメドレー形式で繋いだもので、それぞれ違う楽器を担当する七人の演奏者がいるが、演奏に際しては特殊なルールが設けられている。①演奏者は自分が担当する曲を選ぶことができ、演奏後に各曲に対応した食べ物を食べねばならない、②特定の曲について演奏者が食べる量は、x(任意に設定できる単位値だが、基本は一食で食べるくらいの量)÷その曲を演奏した人数÷演奏した曲数である、③食事は演奏の録音を聴きながら公開で行われ、各曲は対応した食事が完全に食べ終えられるまでループ再生される、④演奏者のうち二人は前日から演奏まで一切食事してはならず、三人は演奏直前の食事を抜かねばならず(午後に行われる場合、昼食を食べてはならないなど)、残りの二人は普段のように食生活を送った状態でなければならない、⑤どの楽器の担当がどれに割り当てられるかは、演奏一週間前にくじ引きで決まる。

他の代表的な作品としては、2001年から進行している《食用楽器》シリーズがある。最初に発表された作品は、竹笛を食べることをコンセプトとしている。田部は演奏の一週間前に三本の竹笛のなかから演奏する一本をランダムで選択し、残りの二本は何とか食べられる状態へと料理し(メンマなど)、それを鑑賞者にふるまいつつ竹笛での演奏を披露したのだ。特定の事物が聴覚にもたらす感覚と味覚にもたらす感覚とのあいだにある差異ないしは共通性という問題はシリーズの続編に引き継がれているとはいえ、演奏される楽器それ自体が食の対象になってはいない以上、本作は比較的穏健であったといえる。それに対して後の作品では、タケノコに糸を付けた弦楽器や、のちにふりかけになる鰹節の打楽器といった楽器兼食材による演奏を観客に聴かせたうえで、その楽器から生じる味を事後的に経験させて演奏の印象を改変するアプローチをとることが主である。別のアプローチとして、プリペアド・ピアノを継承しつつピアノの加工に食物を取り入れた作品も、2012年以降しばしば発表している。こちらは、元フードファイターという異色の経歴を持つ音楽評論家・食田奏太郎との出会いをきっかけにして作られたもので、曲が進行するごとに食田が食べるプロセスが挟まり、それによって音が変動する仕掛けとなっている。食田はただ食べ聴くのみならず、その場で音や味についての文章を執筆する。以前はその文章が演奏後にインターネット上でアーカイブとして公開される形式を採っていたが、文章が演奏者・楽器の傍らに投影される形式が近年においては半ば定番となっている。

また、2008年から進行している《食べ物によって操作された演奏者たち》シリーズも著名である。それは、歌手や凄腕の演奏者たちに、曲の進行に応じて大量の食べもの(ケーキなど、糖分を含むもの)を与えていき、その影響下で身体操作がままならなくなっていくさまを観察するものだ。 

追悼コンサートは『田部留以を食べる』という名称で開催される予定であり、その中心になると見込まれているのは、田部の遺体を田部が考案したレシピに従って料理し鑑賞者にふるまう《田部留以メドレー》である。法律の面から開催を可能とするべく、弁護士や国の人間を交えた相談が進んでいる。
東京都現代美術館で開催された田部の展覧会「田部留以:コンサートホール・タベルナ・ミュージアム」(2033年4月5日(土)~7月6日(日))のために広田依式が作成。その後2034年、広田は偽実験音楽史アーカイブサイトの作成にメンバーの一人としてかかわることになり、更新の必要を感じなかったこともあり、この略歴を許可を得て流用した。なお、広田は同展にアシスタントキュレーター兼パフォーマーとして参加している。

食田奏太郎による田部留以|エッセイ「フード・ファイト」

田部さんと一緒に仕事をはじめてもう10年になる。もちろんそれ以前からその仕事は知っていた。まだ僕がティーンエイジャーだったころから、周りでは(現代音楽というごくごくマイナーな趣味を中核とする小さな共同体が、なぜか片田舎の準進学校に存在していたのだ。コンサートを生で見に行くことなんてできなかったのにもかかわらず、だ)異端の音楽家たるかれの話題で持ちきりだったし、大学に進んでからは、コンサートにしばしば足を運んでその実践を生で堪能していた。 

音楽学の知見を活かして批評(のようなもの)を書いては雑誌に投稿する、という蛮勇を繰り返すようになったのもそのころだ。当時の日本には面白い実践をする人々が本当にたくさん存在していた。だからコンサートに行っては勉強して文章を書き、コンサートに行っては勉強して文章を書き、みたいなことを繰り返していくのが本当に楽しかったんだけど、それにもかかわらず、かれについて文章を書くことは一度としてなかった。書けなかった、というわけでもない。文章を書かれることを拒むような何かが、かれの実践には存在していて、僕はそこに極めて敏感に反応してしまっていたのだろう、と思う。たしかに、のちに田部さんについてたくさん書くようになったのは確かだけど、そのときはこの肝心なものを避ける技術が付いていて、なんとか書くことができたのだ。その実践をつかみきれたという感覚は、実際のところあんまりなかったけど。 

この「何か」について探るために、一つのエピソードを紹介しよう。2024年、『前衛音楽以後』のトークイベントのために、実験音楽家・劇作家の荻屋晴夫さんと打ち合わせをしていたときのことだ。荻屋さんは同書をすごく褒めてくれたんだけど、その中ですごく気になる発言があって、それが棘のように、僕の心のどこかに刺さり続けているのだ。荻屋さんは、その少し前に田部さんと雑談したらしい。「食用楽器」のシリーズのひとつ、「アルコールコップ」の演奏直後だったから酔っていた田部さんは、(田部さんの猛プッシュのおかげで)出された同書の内容についての荻屋さんのコメントに、まるで内容なんてどうでもいいかのようにこう返したらしい。「食田くんはフードファイターだからいいんだよね。あれはたくさん食べる人の文章だよ」。

田部さんらしい言葉だ、と思うだろう。僕もそう思ったし、だから数年はそういう言葉を投げてもらったことに言いようのない喜びを感じてたんだけど、でもやっぱりどこか引っかかってはいたし、そこにこそ、「何か」を探る鍵があるのだろう、と思っているところがある。

たとえ芸術実践を行う場合であっても、人は自分自身が依って立つ場所から完全に逃れ出ることはできないし、それを無化しようとしてはならない。自分自身が依って立つ場所とはつまり、生まれた場とか環境とか、あるいはそれによって形成された身体とかそういうものだけど、それこそが自分から出てくるもの、想像・創造の可能性をいやおうなしに規定してしまうのだ。食という最も基本的な生活の営みを強調し続けることによって田部さんが注意を向け続けたのはこのことだったと思う。それがすごく大事なことだと思うし、それに無自覚すぎると足をすくわれてしまう、ということももちろん分かることではある(それで失敗してきた人を何人も見てきた)。

しかし、だ。作家自身の生=食によって自分から出てくる実践は完全に規定されきってしまう、という決定論のこわさは、なんで誰も指摘していないんだろう、と思うくらい(分かり切っているけど、田部さんが本気で言っているとは誰も思っていないのかもしれない)強調してもしすぎることはない。生活の環境とか社会的地位とか身体とか来歴とか、そういう作家の生といってもいいものから規定されてしまう部分がたしかに存在しつつも、でも「そうだから作られた」には還元できない何かをつかむ可能性は創作の中に常に存在しているし、そうした何かをつかむことで、再帰的に作家の生が変貌してしまうこともある。

そうした可能性を考える余地を許さないほどに、田部さんは生と芸術実践とを無媒介に一致させる。それをこれまでにないほど過度に徹底してしまうからこそ、未知のものが無数に登場してきて面白い。でもそれは危険なことでもあるのだ。先に述べた「何か」もにここと密接に関係している。実践について書いているつもりが、いつのまにか田部さんの生に対する論評になってしまうこと。そうした事態にあっては、自分の書き物がいかにして田部さんに作用するのかをコントロールすることはできない。だから怖かったし、若き日の僕にはそれを避けることしかできなかった。
「田部留以:コンサートホール・タベルナ・ミュージアム」(2033年4月5日(土)~7月6日(日))のカタログに食田が寄せたエッセイを、本人の許可のもとに本ウェブサイトに広田が再掲。

御前頭後による田部留以|回想「大学時代の田部氏を語る」

いやア、そですね、田部さんてのは、アタシ、大学生時分の頃よく付き合ってたんですがね。アタシも田部さんもね、大学にはもう全然行かなくなっちゃってたときですけども、まアタシはただなーんもせずフラフラしてただけでしたけどね、いや田部さんもそんなもんでしたけど、でもなアんか深刻そうにしててね、どォも大変そうでしたよホントに。なんか伊太利のレストランで働いてたんでしょ、メシは美味かったですよ、これもホントに。ですけども一回ね、あのずっと留年してるときあったでしょ、あそこで一回ね、田部さん、モノを腐らしよるようになったんです。まだそんな人前でナントカってするようなこともなかった頃で、田部さん、部屋でモノを腐らしとったんです。田部さんの部屋ってのはなかなか几帳面で、チャンとしてるところでしたが、それは変わらなかったですよずっとホントに、そんなところで魚とかね、動物の肉だ野菜だと腐敗さすんです。そしてそれを余さず食ってくんです自分で。もうホントにね、見てられんかったですアタシも。入れる方より出る方が多いわけです。あのときの田部さんは、イヤそれをやめてからは寧ろ前より明朗になりましたがね、こりゃ死ぬんかってヤツレでした。アタシもさすがに心配でね、なんとか部屋に行ってたんですが、田部さん人付き合いは止めてなかったですよ、まアやっぱりね、なにより臭いは耐えられんかったですね(*1)。そんなとこで田部さん、ホレ見い、俺ん中はもう空っぽだぜ、結局俺は全部明け渡さんとしょうがないのよ、なんて言ってたのは覚えてますが、そんなことを後で言ったら、オマエさんはいつも、まだ生きとったかあなんて言ってましたが、俺は大分本気だったかもしんないねえ、まアでも、ホントに骨身ばりになったときにこいつはヤバいかもしんないぞって怖くなったもんですホントに、それで腐ったもん掃き出して、オマエさんもそれ聞いてそっちの方がいいよオて言ってくれたの覚えてますけどね、もうそんときはホウホウのテイだったと思いますが、でもね、もう空っぽでもなんでもないですよホントに、ただなけなしに萎んで空白なんてありゃあせんです、それでちゃんとしたメシ食ったらね、もう飛び上がりましたですよ。(話し:尾前頭後)
*1:まだ魚はいいんです、アタシが漁師の家の生まれだからってのもありますかね、まあ魚の臭いはアタシも慣れてるわけですが、魚ってのはなんてかスカッと直接くるでしょ、だからまだいいんですがね、ほかの動物の肉とかになりますとね、あれはひねくれとって、なアんかモヤみたいにイヤアな臭いが立ち込めて、不意にそこから鼻を突き刺して来よる鋭利なのが来るんです、肉と野菜が混ざるとネエ、分からんですか?まあ腐敗も進むとそれどころじゃないわけですけど、ね、イヤな話でしたかね。