私、
食田奏太郎は先月末に学会への参加のためワシントン D.C.を訪れたのだが、その折にとある作曲家に出会った。MITで音楽教育プログラムを担当する音楽学者H.Gilmanである。彼と親しくなる一方で作曲家としての彼にも関心が湧いたので、今回のエッセイではそれについて取り上げてみたいのだが、その前にまずは、彼と親しくなったきっかけについてお話ししたい。その学会は東欧音楽の研究者が集うもので日本人研究者は私以外にあまりいなかったのだが、学会が終わるなり彼は私に近づいてきていきなりこう言ったのである。
「日本語って文字の種類がいっぱいあるんだろう?だったらさ、音楽記号や音符に似た形の文字を知らないか?」
あまりの唐突さに私は少々面食らってしまったし、憤りさえ覚えた。このとき私は恐ろしく腹を空かせており、一刻も早く飯にありつきたかったからだ。が、しばしこの問いへの答えを考えると空腹が引っ込んだ。彼への興味がむくむくと頭をもたげてきたのである。とりあえず「♯と似た『井』という漢字があるよ」とだけ答え、私はひとまず食事に誘ってみた。いきなり日本人を捕まえてこんなことを聞いてくる奴なんて、よほど面白い人間に決まっているからである。
レストランに着くと金のなかった私は一番安い料理とビール(なんていったって日本より安いのだ!)を頼み、早速彼に気になっていたことを聞いてみた。なぜ音楽記号や音符に似た形の文字を探しているのか。すると彼は、「私は音楽を用いた新しい試みをしているのだが、それに必要なんだ」と。要するに彼は、音楽学者・音楽教師でありながら実験音楽の作曲家でもあり、その創作に使いたかったということなのだ。ここはこのエッセイでも深掘りをしたいのだが、「どういう作品を意図しているかは協力者であるあなたには伝えるけれど、その外の人には絶対に漏らさないでほしい」と懇願されてしまった手前どうしようもない。今までの彼の作品を紹介することでご容赦いただきたい。作品が公開された暁には(それまでに私が降板させられない限りは)詳しくこのコーナーで取り上げることを読者の皆様にお約束する...と引っ張った方が読者がつくからな。物書きはこうやって読者を引き止め飯を食っていく生き物なのである。どうか、私を恨んだり私の人格を疑ったり、は控えてほしい。
さて、我ながら前置きの⻑さに驚き呆れるが、いよいよ本題の作品紹介である。直近2016 年に作られた二つの作品を紹介する。録音は彼の名をYouTubeで検索すれば自身によるチャンネルが一発で出てくるから、本邦おそらく初のハワード・ギルマンに関する資料をぜひ録音とともに楽しんでほしい。
《トーン・ジェネレーター四重奏のための小品(A Piece for Tone Generators Quartet)》その名の通り、トーン・ジェネレーター、すなわち波形と周波数を指示することでその音を発生させる装置を用いた四重奏である。なんだ、周波数を指示するどこが実験音楽なんだ、ワクワクしたじゃあないか、期待を返せ!!と言いたくなるのもわからなくはないが、ちょっと考えてほしい。それは、我々が日常生活でトーン・ジェネレーター(のようなもの)を用いる瞬間がないか?ということである...そう、健康診断の一貫で行われる聴力検査である。そして通俗的なところだと、耳年齢によって聞こえる最高周波数が異なることから、耳年齢診断などにも用いられている。ここがこの作品のミソである。耳年齢(なんてものがあるのか知らないが)によって聞こえてくる音楽が異なるのである。聞き手の耳年齢という偶然性が作品に作用する、これは立派な実験音楽である。ここで注目したいことが2つある。ひとつは作品の形式性、もうひとつは作品の意図である。なお、最初の方でバイノーラル・ビートが用いられているのは、彼の遊び心によるもので、特筆に値するとは私は思わない。
少しでも⻄洋音楽の造詣のある方ならすぐにお分かりいただけるように、この作品は明らかに古典的な形式を踏まえている。さらに言えば、古典的な形式を踏まえていることを明らかに示すような書き方をしている。わかりやすく三部形式の形をとっている点、オスティナート・バスの技法を真似ている点がそれに該当する。後者に関して言えば特に、彼は最低音を担当するトーン・ジェネレーターに対して"4th tone generator"ではなく、"Bass tone generator"という名前を与えている。こうしたことから分かるように彼は明らかに古典的⻄洋音楽を意識している。こうしたやり方は、あくまでも彼自身の口から聞いたわけではなく私の憶測に過ぎないが、彼の実験音楽に対する反発を示しているように私には思われる——趣味でどのような音楽を聴くかを尋ねると彼はブラームスを好むと答えていた——そう、リストやワーグナーが率いる、当時にすれば実験的ともいえるような技法の潮流に逆らった古典主義者ブラームスのように。
ケージ以来、偶然性の音楽が溢れるこの時代、比較的偶然性に委ねられている側面が小さいこの曲を彼が作り出したのはなぜなのか。これは読者の皆様が最も気になることに違いない。私も気になったので聞いてみたところ、こういった旨の回答が得られた。「私は徹底的に、『認知により聴こえ方が異なる音楽』を追求したいと考えています。たとえば《4 分 33 秒》がそういった要求に応えるものであることは私にももちろん分かることだが、それだと不十分なのです。あまりにもさまざまな偶然性の要素を含み過ぎている。そうではなくて、認知による偶然性というものだけをパラメーターにした作品が必要なのです。」
《印象派画家が模写した楽譜(Impressionist Paintersʼ Copies of Music Sheet)》アルゼンチンの実験音楽作曲家
Ellen C Covitoが《Composed Improvisiation》という作品シリーズを2014年に発表したことを知ったギルマンは、彼自身の「認知による偶然性」と近いものを感じ共感を覚える一方で、《トーン・ジェネレーター四重奏のための小品》に通底する《Composed Improvisiation》の不十分性を発見したそうだ。人のふり見て我がふり直せというのはまさしくこういうことであろう。それは、「聞こえる/聞こえない」あるいは「見える/見えない」という二元論に陥っていることである。視力にせよ聴力にせよある一定の数値を超えるともう脱落するほかないのである。こうした穴から脱却するための一手をこの作品で講じたという。作品の内容としては単純明快で、楽譜が曲を追うごとに画質が荒くなっていく。Covito へのリスペクトを示す意図があるのだろうか、《Composed Improvisiation》と同じバルトークの二重奏をファウンドスコアとして用いて作られている。ただ、新しさが見られるのはこの点ではない。なるほど、曲の表紙にはいくつかの注意書きが添えられているのだが、その末尾はわざわざご丁寧に太字にまでして、この注意で締め括られる。"8. The most important thing is that do not give up playing until the last page."この注意書きにより、「見えないけど誤りながらも演奏を続ける」という演奏者にとってはなんとも過酷なことが強制され、その結果として◯×の二元論的な認知の限界から抜け出すに至るのである。