Howard Gilman

1963- | USA

食田奏太郎によるハワード・ギルマン|
エッセイ「漢字で実験音楽!?——H.Gilman紹介:1」

同人雑誌『Cōnātus』2016 年 11 月号
私、食田奏太郎は先月末に学会への参加のためワシントン D.C.を訪れたのだが、その折にとある作曲家に出会った。MITで音楽教育プログラムを担当する音楽学者H.Gilmanである。彼と親しくなる一方で作曲家としての彼にも関心が湧いたので、今回のエッセイではそれについて取り上げてみたいのだが、その前にまずは、彼と親しくなったきっかけについてお話ししたい。その学会は東欧音楽の研究者が集うもので日本人研究者は私以外にあまりいなかったのだが、学会が終わるなり彼は私に近づいてきていきなりこう言ったのである。
「日本語って文字の種類がいっぱいあるんだろう?だったらさ、音楽記号や音符に似た形の文字を知らないか?」
あまりの唐突さに私は少々面食らってしまったし、憤りさえ覚えた。このとき私は恐ろしく腹を空かせており、一刻も早く飯にありつきたかったからだ。が、しばしこの問いへの答えを考えると空腹が引っ込んだ。彼への興味がむくむくと頭をもたげてきたのである。とりあえず「♯と似た『井』という漢字があるよ」とだけ答え、私はひとまず食事に誘ってみた。いきなり日本人を捕まえてこんなことを聞いてくる奴なんて、よほど面白い人間に決まっているからである。
レストランに着くと金のなかった私は一番安い料理とビール(なんていったって日本より安いのだ!)を頼み、早速彼に気になっていたことを聞いてみた。なぜ音楽記号や音符に似た形の文字を探しているのか。すると彼は、「私は音楽を用いた新しい試みをしているのだが、それに必要なんだ」と。要するに彼は、音楽学者・音楽教師でありながら実験音楽の作曲家でもあり、その創作に使いたかったということなのだ。ここはこのエッセイでも深掘りをしたいのだが、「どういう作品を意図しているかは協力者であるあなたには伝えるけれど、その外の人には絶対に漏らさないでほしい」と懇願されてしまった手前どうしようもない。今までの彼の作品を紹介することでご容赦いただきたい。作品が公開された暁には(それまでに私が降板させられない限りは)詳しくこのコーナーで取り上げることを読者の皆様にお約束する...と引っ張った方が読者がつくからな。物書きはこうやって読者を引き止め飯を食っていく生き物なのである。どうか、私を恨んだり私の人格を疑ったり、は控えてほしい。
さて、我ながら前置きの⻑さに驚き呆れるが、いよいよ本題の作品紹介である。直近2016 年に作られた二つの作品を紹介する。録音は彼の名をYouTubeで検索すれば自身によるチャンネルが一発で出てくるから、本邦おそらく初のハワード・ギルマンに関する資料をぜひ録音とともに楽しんでほしい。

《トーン・ジェネレーター四重奏のための小品(A Piece for Tone Generators Quartet)》
その名の通り、トーン・ジェネレーター、すなわち波形と周波数を指示することでその音を発生させる装置を用いた四重奏である。なんだ、周波数を指示するどこが実験音楽なんだ、ワクワクしたじゃあないか、期待を返せ!!と言いたくなるのもわからなくはないが、ちょっと考えてほしい。それは、我々が日常生活でトーン・ジェネレーター(のようなもの)を用いる瞬間がないか?ということである...そう、健康診断の一貫で行われる聴力検査である。そして通俗的なところだと、耳年齢によって聞こえる最高周波数が異なることから、耳年齢診断などにも用いられている。ここがこの作品のミソである。耳年齢(なんてものがあるのか知らないが)によって聞こえてくる音楽が異なるのである。聞き手の耳年齢という偶然性が作品に作用する、これは立派な実験音楽である。ここで注目したいことが2つある。ひとつは作品の形式性、もうひとつは作品の意図である。なお、最初の方でバイノーラル・ビートが用いられているのは、彼の遊び心によるもので、特筆に値するとは私は思わない。
少しでも⻄洋音楽の造詣のある方ならすぐにお分かりいただけるように、この作品は明らかに古典的な形式を踏まえている。さらに言えば、古典的な形式を踏まえていることを明らかに示すような書き方をしている。わかりやすく三部形式の形をとっている点、オスティナート・バスの技法を真似ている点がそれに該当する。後者に関して言えば特に、彼は最低音を担当するトーン・ジェネレーターに対して"4th tone generator"ではなく、"Bass tone generator"という名前を与えている。こうしたことから分かるように彼は明らかに古典的⻄洋音楽を意識している。こうしたやり方は、あくまでも彼自身の口から聞いたわけではなく私の憶測に過ぎないが、彼の実験音楽に対する反発を示しているように私には思われる——趣味でどのような音楽を聴くかを尋ねると彼はブラームスを好むと答えていた——そう、リストやワーグナーが率いる、当時にすれば実験的ともいえるような技法の潮流に逆らった古典主義者ブラームスのように。
ケージ以来、偶然性の音楽が溢れるこの時代、比較的偶然性に委ねられている側面が小さいこの曲を彼が作り出したのはなぜなのか。これは読者の皆様が最も気になることに違いない。私も気になったので聞いてみたところ、こういった旨の回答が得られた。「私は徹底的に、『認知により聴こえ方が異なる音楽』を追求したいと考えています。たとえば《4 分 33 秒》がそういった要求に応えるものであることは私にももちろん分かることだが、それだと不十分なのです。あまりにもさまざまな偶然性の要素を含み過ぎている。そうではなくて、認知による偶然性というものだけをパラメーターにした作品が必要なのです。」

《印象派画家が模写した楽譜(Impressionist Paintersʼ Copies of Music Sheet)》
アルゼンチンの実験音楽作曲家Ellen C Covitoが《Composed Improvisiation》という作品シリーズを2014年に発表したことを知ったギルマンは、彼自身の「認知による偶然性」と近いものを感じ共感を覚える一方で、《トーン・ジェネレーター四重奏のための小品》に通底する《Composed Improvisiation》の不十分性を発見したそうだ。人のふり見て我がふり直せというのはまさしくこういうことであろう。それは、「聞こえる/聞こえない」あるいは「見える/見えない」という二元論に陥っていることである。視力にせよ聴力にせよある一定の数値を超えるともう脱落するほかないのである。こうした穴から脱却するための一手をこの作品で講じたという。作品の内容としては単純明快で、楽譜が曲を追うごとに画質が荒くなっていく。Covito へのリスペクトを示す意図があるのだろうか、《Composed Improvisiation》と同じバルトークの二重奏をファウンドスコアとして用いて作られている。ただ、新しさが見られるのはこの点ではない。なるほど、曲の表紙にはいくつかの注意書きが添えられているのだが、その末尾はわざわざご丁寧に太字にまでして、この注意で締め括られる。"8. The most important thing is that do not give up playing until the last page."この注意書きにより、「見えないけど誤りながらも演奏を続ける」という演奏者にとってはなんとも過酷なことが強制され、その結果として◯×の二元論的な認知の限界から抜け出すに至るのである。
A Piece for Tone Generators Quartet(スコア)
Impressionist Paintersʼ Copies of Music Sheet(スコア)

食田奏太郎によるハワード・ギルマン|
エッセイ「漢字で実験音楽!?——H.Gilman紹介:2」

同人雑誌『Cōnātus』2017 年 2 月号
皆様ご無沙汰しております。三ヶ月前に「漢字で実験音楽!?——H.Gilman紹介」という記事を寄稿いたしました食田奏太郎です。前回の記事を読んでいない方もいらっしゃるであろうからその内容を軽く要約すると、次のようになる。学会で出会ったH.Gilman という音楽学者・実験音楽作曲家は、学会終了後に突如私に「日本語って文字の種類がいっぱいあるんだろう?だったらさ、音楽記号や音符に似た形の文字を知らないか?」というなんとも奇妙な質問を投げかける。興味を持った私が詳しく話を聞いてみると、どうやらその漢字を実験音楽に用いるようである。ただし具体的な内容に関しては、曲を公開するまで秘密にしておいてほしいとのことで、前回の記事には書かずに終わったのである。
あれから三ヶ月、彼も曲を書き終えたようで、楽譜・録音データがメールで送られてきた。作曲の意図や背景が気になった私は、zoom を繋いで(なぜ電話ではないのかと疑問に思う方もおられるだろうから一応説明をつけておくと、国際電話だとお金がかかる一方、こちらだと大学院のアカウントを使ってタダでできるのである)彼の真意を問うてみた。今回はそのことについて書いていこうと思う。

《音符と罠(Notes and Nets)》という曲で、このような似た音を用いてタイトルをつけるようなところに彼の遊び心が感じられる。内容としては、表紙に書かれた注意書きを訳すのが分かりやすい。
"In this piece, the performer performs a visual search, and there are multiple notations per measure. Some of the scores contain puzzling parts (nets) and some do not (notes). The music is played on the spot, reading the score without looking it over beforehand. The tempo is around ♩=40 by a metronome. The piece is repeated twice using the same score. There can be more than one type of nets. The original is 'Old Hungarian Dances from the 17th Century' by Ferenc Farkas."
以下に筆者の仮訳を付しておこう。「この作品では、演奏者は視覚探索を行い、一小節に複数種類の記譜法が用いられる。楽譜には、不可解な部分があるもの(nets)とないもの(notes)がある。事前に楽譜に目を通すことなく、その場で楽譜を読みながら演奏する。テンポはメトロノームで♩=40 前後。曲は同じ楽譜で二回繰り返される。nets は複数種類ありうる。原曲は Ferenc Farkasの《Old Hungarian Dances from the 17th Century》である。」

視覚探索とは認知科学の用語で、ある目的のものを視覚的に見つけ出すことをいい、ここではすなわち、視覚的に適切な楽譜を探し出す作業を瞬時に行ないながら演奏を進めていくというのである。ここで、ギルマンがnetsをかなり慎重に検討して作り込んでいるということは注目に値する。よくよくスコアを読み込んでみると注意書きで言われるような「不可解な部分」が音楽的な知識を要さないように、かつ、nets に引っかかった際には、音楽をあまり聞かない人や和声に知識がない人でも分かるくらいに不自然な和音が出るように仕掛けられている。実際に楽譜を見てみるのが早いだろうから、数行を抜粋して解説してみる(譜例1)。

まず、notesは上から二行目右から二番目、および上から四行目右から三番目の二つである。それ以外のものに関してはスラーの掛け方が不可解になっており(あくまでもこの不可解さが視覚的なものであることが重要だ)、netsであると判断できる。こうしたことを瞬時に行なっていく。実際notesとnetsでは二拍目の二音が(これはト音記号in Cの楽譜であるが)G-Cが正解であるはずが、間違いの方はE-Gとなっている。

ここで、この部分のスコアを原曲で見てみよう(譜例2)。

ギルマンの楽譜は上記スコアの上から二段目(ギルマンは"2nd"と表記しているので他のパートも同様に呼ぶ、ただし最下段は"4th"ではなく"Bass"である)に該当するものであるが、もし二拍目のG-CがE-Gとなり、このとき"1st"が探索に失敗するとそちらの二拍目のE-F-GがD-E-Fになるので、二拍目裏の音が"1st"はF、"2nd" がGで七度の和音になりぶつかることになる。こういった形で、探索のミスが音の違和感になるような仕組みが整えられているのである。
なお、「"4th"ではなく"Bass"という名称が用いられている」という点に関しては、単に原曲がヘ音記号を用いて書いていたという理由も考えられる。しかし、前回のエッセイをご覧になった方はお分かりであるように、彼の古典主義的思想が滲み出ていると言えなくもない。3 ヶ月前の記事をそのまま自己引用しておく。「こうしたやり方は、あくまでも彼自身の口から聞いたわけではなく私の憶測に過ぎないが、彼の実験音楽に対する反発を示しているように私には思われる——趣味でどのような音楽を聴くかを尋ねると彼はブラームスを好むと答えていた——そう、リストやワーグナーが率いる、当時にすれば実験的ともいえるような技法の潮流に逆らった古典主義者ブラームスのように。」

そして、皆様がきっと気になっていたであろう、「井」の使い道はこんな感じである(譜例3)。おそらく井本人(本字?)もびっくりであろう。
Notes and Nets(スコア)

馬場悠人によるハワード・ギルマン|期末レポート

MITで音楽プログラムを担当していたハワード・ギルマンは、哲学・心理学研究者ネッド・ブロックの同僚で、Phenomenal consciousness/Access consciousnessの区別について直接的に本人から聞いていた。その中で、Access consciousnessを、音楽の偶然性を使って取り出そうという試みを始める。これは、主観的なクオリアの非クオリア化を期待するもので、意識のハード・プロブレムに対する解答を示そうとしたものでもある(ただしその意図が結実しているとは限らない)。日本では、食田奏太郎が雑誌のエッセイにおいて紹介をしたが、ギルマン自身が上記のような思想的背景を食田に伝えていなかったためにその部分は知られていない。以下のレポートは、馬場悠人によるギルマンの研究である。
初年次ゼミナール期末課題.pdf

ドリー・ギルモアによるドリー・ギルモアとハワード・ギルマン|会話

この作品では、何組が会話をしているかという数と音を対応させて、即興的に音楽をつくっていく。ちなみに、この録音に収録された本曲の初演に際しては、私の会話も含まれている。会話の冒頭を録音しておいたので、せっかくなのでここに書いておこうと思う。

会話の参加者
D=ドリー・ギルモア:言語哲学者、実験音楽作曲家
N=ネッド・ブロック:心の哲学を専門とする哲学者、ギルモアの大学時代からの友人
H=ハワード・ギルマン:比較音楽学者、実験音楽作曲家、ブロックの同僚

N「会いたいと聞いていたから、今日は私の友人の実験音楽作曲家を連れてきたよ、大学の同僚のハワードだ」
D「こんにちは、ドリーです」
H「どうも」
D「今回、この会話は私の作品に活かす形で考えています、そのために録音してもよろしいかな?」
H「どうぞ、会話を音楽にするという方向ですよね、話は多少聞きました」
D「そうですね、特に深い思想があるわけではないのですが。もっぱらこれは私の趣味のようなものですからね、戯れに付き合わせているのはやや申し訳ない」
H「なるほど、これはしばしば勘違いされることなのですが、作曲者が深い思想を前提していないことは、聴衆がその曲について深く考察しない理由にはなりません。音楽学の分野でではありませんが、ヴォルフガング・イーザーの文芸理論を参照するとそういう形に結論できる。ということはすなわち、その曲の価値を落としめる理由にもならないのでしょう」
D「なるほど、とにかく協力していただけたのはありがたい。それはそうとして、あなたの作品について色々調べさせていただいた、とても面白い」
H「ありがとうございます、ネッドの思想を活かしたつもりでいます」
N「私の代表的理論である​​phenomenal consciousness/acsess consciousnessですね​​​​」
H「そう、私の作品はあなたの関心を映し取ったものであるといえますね」
《Speaking, Playing》の録音に付されている解説。