インドの言語学者であり、
ドリー・ギルモアに続いて会話を音楽的な記号に置き換えて作曲を行おうと考えた人物である。もともとはイギリスで暮らしていたが、留学先であるインドでその言語的多様性に感嘆し、インドに移住した。現在五十二歳の彼はインドにおける言語学の第一人者であり、インドにある各言語の関係性の分析が彼の主要な研究テーマである。趣味で実験音楽を聴いたり作ったりしている。言語能力に優れており、十二カ国語を話すことができ、インドの言語にも造詣が深い。
1990年代末頃から彼は今まで本業と趣味として別々に扱っていたこの二領域を合わせて新たな作品を作れるのではないかとひらめいた。この背景にあったのは言語消滅である。このころから言語消滅が問題として叫ばれつつあった。グローバル化により英語など特定の言語が支配的になりつつある一方で、少数民族の言語などは次第に使われなくなり消滅していく。インドもその例外ではなく、インドの言語的多様性に感銘を受けたウォンは言語を何らかの形で残すことはできないかと考えていた(この彼の思想は自身が開設したブログで2006年に記されている)。そこで思いついたのが会話を文字に起こしたときの発音記号を音楽的なパラメータに対応させて作曲するというものであった。これによって言語的による違いを音楽的な違いとして表せないかと考えたのである。そして最初に作曲の舞台として選んだのは近所にある行きつけのカフェZIONであり、そこで「作曲」した曲には《In the cafe》という題名をつけて2002年に発表された。当時はインターネット黎明期でもあり、一部の
実験音楽ファンから評価された(しかし現在では「言語多様性を打ち出した曲なのに曲名が英語なのは、Wong 自身が英語の優越性から抜け出せていないのでは」と指摘する声もある)。この取り組みに注目していた実験音楽家の一人にギルモアがおり、ウォンの演奏会を聞きにアメリカからインドに訪れるほどだったという。二人は親交を深めていった。やがて離れた語族の言語で作曲したらさらに違いが際立ちそうだと予測し、国際学会などの場を使って作曲するようになった。
こうしたなか、2012年にカフェZIONが経営危機に陥っていた。自身の作曲家としての転換点となった場所に何か恩返しをしたいと思った彼は、ある時ジョン・ケージの「シアター」についての論考と個人的な妨害についての研究(これは彼のブログで考察されていたことであり、これに注目した
ジークフリート・ノイマンが2024年に妨害に関する論文の参考にしている)をきっかけに、ZIONで公演を行うことができないかと考えた。カフェには様々な障害物があり、音が店内全体に平等にいきわたるようにできてはいない。このようなことを活かして、観客ごとに違った聞こえ方となるような音楽ができるのではないかと考えたのである。公演の内容は ZION で書き起こした会話を楽譜にし、演奏家はその会話がなされた場所に座って演奏し、観客は空席を一つ選びそこで音楽を聞いてもらうというものだった。また観客によって聞いているものが違うということを実感してもらうために、チケットは二人以上のグループで一 枚発行する形をとった。この公演はギルモアの協力のもと全部で七回行われ、この試みを聞きつけた彼のファンが世界中から集まった。物珍しさに地元テレビも取材に訪れており、公演の様子が一部記録されアーカイブとして残されている。こうして実験音楽ファンからも地元住民からも一躍注目を浴びたことで店は大盛況。ZIONは経営難を脱し、現在も営業を続けている。現在彼はこのカフェで月に一回定期的に公演を行っているほか、世界中の様々な場所で同様の作曲・公演を続けている。
この試みから着想を得たのが日本の新進気鋭の作曲家、廣川開人(ひろかわかいと)である。彼は国立音大に通っていたが、大学三年時に休学し世界の音楽を聴いて回る度に出たのだが、インドで偶然ZIONでのウォンの公演に行き、面白い試みだと感じていた。ウォンの音楽はインドの言語多様性を利用・宣伝した音楽であったが、日本でも同じような試みができないかと考えた。そこで思いついたのが方言によって楽器を分けるということであった。彼は熊本の出身で上京当時は方言や訛りを馬鹿にされていたという実体験をもとにしたアイデアである。彼は帰国後、熊本の居酒屋で「作曲」を開始し、2017年に《SAKABA in Kumamoto》という題名をつけ音源をネット上で発表した(彼は自身の twitter や Facebookでこれらの作品を宣伝している)。実験音楽ファンからは「ウォンのパクリである」との声も上がったが、ウォン本人は同一言語(とされているもの)の多様性を反映した良作であると評価している。