私が亡命したのは1976年のことだった。当時は石油危機を機に経済状態が悪く、ただでさえ生活費を切り詰めて楽器製作をしていた私の生活はさらに悪化した。そこにとどめを刺すかのようにプラウダに突如として私の作品が批判され身の危険を感じ、アメリカへと旅立つことに決めた。その道中も様々な困難があったが、今この場でそれを語るのは紙の無駄であろう。
なんとか永住権を獲得し、楽器製作を続けるために日雇いで稼いでいた私を拾ってくれたのはMITだった。1982年に私が過去に作った楽器をプレゼンしに持っていったところ、機械の分野で私を雇ってくれることになった。その楽器は既存の楽器とコンピュータを組み合わせ、元の楽器から出るはずのない別の楽器の音をコンピュータを用いて出す、というものである。その研究を続けられることが決まった私はとても嬉しかった。私がMITに勤め始めてから2年、面白い学生が私のもとにやってきた。名を
Howard Gilmanという。21歳だった彼はもともと音楽に興味があったらしく、私の製作途中の楽器をまじまじと見つめては矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。そんな彼は今では分野こそ違えど実験音楽を研究するMITでの同僚である。